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2006年05月15日 小諸城

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小諸市にある小諸城「三の門」付近(H18/4/22撮影)
小諸城入口の「三の門」には、徳川16代将軍になるはずだった徳川家達(とくがわいえさと)公による大額(懐古園)が掲げられています。徳川宗家は現在18代目、2003年に当主が財団法人徳川記念財団を造り話題になりました。
 この門は変わったことに城下町より低地にあり、1742年の大水害時(戌の満水)には流されてしまったということですから水害のすさまじさを感じます。
http://www.city.komoro.nagano.jp/kankou/kaikoen/index.html
 ところで、大好きな漫画・宮下英樹著『センゴク』(ヤングマガジンコミックス)最新刊(9巻)が出たので、近くの居酒屋で一杯やりながら読書。漫画を居酒屋で一人読んでいる姿は異様でしょうか、周りの視線を感じます。この9巻最後のほうで家康が主人公(仙石)にかけた言葉は、後の展開に重要な役割を果たすことに。
 従来小諸城というと徳川家達や島崎藤村の話が中心となることも多いようでした。しかし、最近は違う話題に。それは、上記の漫画の主人公「仙石秀久」が小諸城主となっていたこと。
百科事典ウィキペディアによれば下記のように紹介。少々長いですが。
「仙石秀久(せんごく ひでひさ、1551年3月3日(天文20年1月26日) − 1614年6月13日(慶長19年5月6日))は、戦国時代、江戸時代の武将。もともとは「千石」と表記していた。通称は権兵衛。・・・羽柴秀吉に早くから仕え、秀吉が織田信長に命じられた中国征伐に従軍して戦功を挙げ、淡路の国主に任じられた。信長死後、秀吉が覇権を握る過程において当時四国を支配していた長宗我部元親と対陣する。そこで秀吉の命で十河氏救援に向かうこととなる。讃岐引田の合戦において元親軍先鋒の香川氏を破るも大西氏の奇襲により敗退してしまう。しかしその後の四国征伐の功績により四国征伐後、讃岐・聖通寺に十万石を与えられた。しかし1586年(天正14)、秀吉の命により長宗我部元親や十河存保と共に九州征伐の戦目付として渡海した際、秀久は功に焦って無謀な作戦を立ててしまう。そしてこの作戦により行なわれた戸次川の戦いで島津家久率いる島津軍に豊臣軍は大敗し、元親の嫡男・信親や十河存保といった有力武将の多くが戦死してしまった。さらに秀久自らは諸将の軍を差し置いて四国へ逃げ帰るという醜態を見せた。これらの行状に激怒した秀吉は、秀久の所領を没収して、高野山へ追放した。
 その後徳川家康のとりなしを経て、1590年(天正18)の小田原征伐の時には陣借りという形で秀吉の軍に加わった。このとき秀久はきらびやかな鎧に鈴を一面につけるという際立つ格好をして参加し、抜群の武功を挙げた。箱根にある仙石原の地名は、彼の奮闘の地であったことを記念して付けられたものである。この功績により、秀久は信濃・小諸に5万石を得て、大名として復帰した。こうした経緯から秀吉死後は徳川氏の家臣となり、1600年(慶長5)の関ケ原の戦いでも徳川方として従軍、秀忠とともに真田昌幸の守る上田城で足止めを食い、関ヶ原本戦に遅参してしまう。秀久は秀忠の遅参について激怒している家康への謝罪に努め、秀忠が将軍就任後、特に重用されるようになる。そのため仙石氏は、明治維新まで家名を存続させることとなる。
 ちなみに、戸次川の戦いで無謀な作戦を立てた最大の責任者でありながら、真っ先に敵前逃亡した秀久は、後年の史料で『三国一の臆病者』と言われるほどに罵られている。・・・・」
箱根の仙石原の地名が彼にまつわる話とは知りませんでした。
歴史の脇役だった人たちの話も面白く、時代劇にでもなったらいいですね。大河ドラマは自治体による強力な誘致や知名度がないと不可能でしょうから。

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