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2006年05月17日 東西の運命

20060517-1.jpg

ゴールデンウィーク中、家族で関西(家内の実家)へ。帰りに岐阜県「関ヶ原ウォーランド」に立ち寄ったときのようす。(H18/5/6撮影)
 ここは、関ヶ原合戦の模様をリアルに再現?
 私は17年ぶり、前に訪れたときと周辺の状況はあまり変わっていなかったような感じでした。
関ヶ原観光協会:http://www.kanko-sekigahara.jp/kankou/ko-02.htm
ウォーランド資料館には、東西に別れて戦った武将の一覧が表示。
西軍VS東軍
真田昌幸(父)・幸村(次男)VS真田信幸(長男)
織田信雄(信長次男)・信高(信長七男)VS織田有楽(信長末弟)
蜂須賀家正(父)VS蜂須賀豊雄(子)
生駒正俊(子)VS生駒一正(父)
九鬼嘉隆(父)VS九鬼守隆(子)
前田利政(弟)VS前田利長(兄)
小出吉政(兄)VS小出吉辰(弟)
 有名な真田親子のほかに多くの親兄弟が別れて戦っていたのですね。
ここに表示してありませんでしたが、長野県にとって重要な武将、仙石秀久親子も別れて戦っています。
仙石秀久と三男の忠政は東軍(徳川方)、次男の秀範は西軍(豊臣方)に。
 ただ、秀久は徳川秀忠とともに到着が遅れ実際には戦っていませんが。
 人生の選択というのは不思議なもの、それは今も同じでしょうか。
 下記ホームページによれば、西軍に属した仙石秀範(せんごくひでのり)の経歴は以下のとおり。
「仙石秀久の次男。通称は権兵衛。豊臣秀吉没後、豊臣公儀より3千石を拝領。関ヶ原の戦いでは父や弟と別れ、西軍に属す。・・・慶長17年(1612)に廃嫡。東西手切れとなると大坂に入城。冬の陣では兵5千人(後に増加)を指揮して、二ノ丸南方・惣構平野口を守備。真田丸の後方を守った。夏の陣の天王寺・岡山の戦いでは大坂城の京橋口を守備。落城の際に城から脱出して丹波に逃亡したというが、・・・・」
http://tikugo.cool.ne.jp/osaka/busho/sengoku/b-sengoku-hide.html
 ところで、長野市に「合戦場」という地名があり、川中島合戦(第4回)場(注)近くに位置しています。現在、区画整理された住宅地、商業地が広がっていて昔(農地)とは状況が一変。暗いイメージのつきまとうことが多い合戦場を逆手に取った地名でしょうか。
(注)下記文献によれば謙信と信玄の一騎打ちで有名な第4回は、信用できる記録がほとんど残っていないため推定(場所、兵数等)でしかないそうです。
笹本正治著「川中島合戦は二つあった」信濃毎日新聞社

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