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2006年07月05日 興国寺

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須坂市にある興国寺(曹洞宗)、前にブログで紹介した「臥竜梅」のある所で須坂藩堀家の菩提寺。私の親戚もここに墓地があり少し親近感が。
 重厚な仁王門ですが、大正時代中ごろ台風で倒れて再建したそうです。
 須坂市には浄土真宗のお寺が目立ちます。古いですが戦前の記録では浄土真宗の寺は20箇所近く、曹洞宗(臨済宗はなし)は13箇所どまり。禅寺より真宗寺のほうがはるかに多いのですから町人の力が大きかったことも影響しているのでしょうか。 
この堀家ですが文献(ふるさと須坂)を要約すると「堀家は1万石の小大名でしたので城は持たず館(陣屋)を構えました。須坂藩主は14代まで続き、13代目の堀直虎は幕府の若年寄兼外国総奉行に就任しましたが・・・」と説明。1万石はあの晩年大名となった大岡越前と一緒。1万石でも参勤交代は必要、度重なる財政改革等歴代藩主及び家臣並びに領民は苦労したことでしょう。
この堀家の祖先は愛知県(中島郡奥田)出身、そういえば長野県は飯山藩松平家、小諸藩仙石家、松本水野家、小布施の福島正則(福島藩4万5千石)等愛知県出身が多いような。無理もありません、全国の大名の約半分くらいは愛知県出身だそうですから。
 東京にいた頃、忠臣蔵の赤穂浅野家は5万石でずいぶん小さな大名だなと感じていましたが、長野に来てから大きな大名だと思うように。というのは真田藩でさえ10万石、他の大名にいたっては飯山藩4万石、小諸藩5万石、高遠藩3万3千石・・・
 ところで前回のブログで曹洞宗寺院の多さを紹介。ではなぜこんなに広まったのでしょうか。
 須坂市史によれば「曹洞宗は栄西に学んだ道元が越前永平寺を開いたことに始まる。道元は旧仏教との妥協をきらう純粋禅を守ろうとする正法禅の立場を堅持したが、その後、顕密(加持祈祷をする真言・天台宗)と習合する一派が台頭し、この中から瑩山、峨山(南北朝期)が現れて、曹洞教団の地方発展に一時期を画した。瑩山以降の曹洞宗は旧仏教や修験道などとの接触融合をすすめて民心慰撫を強調し、室町時代に入って民衆化が著しくすすんだ。橋の建設・供養・霊泉の発見・水利の開さく・悪龍鬼神の退治等の説話による現世利益の実践運動に力を注ぎ、教化の対象を上級武士から下は一般民衆にまでおよぼしたので・・・」と説明。ただ、橋を造れ、水利を開削しろと言ってもだめでしょうから当時の布教活動をした人は技術的な裏付け、つまり土木技術に優れていたのでしょう。でなければこれだけ普及するはずがありません。
文献
須坂市史159p、信濃毎日新聞社出版社編「信州百寺」信濃毎日新聞社、「ふるさと須坂 歴史と文化財」須坂市教育委員会

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