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2006年07月11日 普願寺

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須坂市小山南原町にある普願寺(浄土真宗本願寺派)のようす。ついでに一番下の息子(もうすぐ5歳)も写っています。
 下記文献によれば普願寺の開創は親鸞聖人の関東巡錫の時とのこと。
 堀が巡らされ重厚な黒門が迎えてくれます。この寺は須坂藩の二代藩主堀直升(文献によっては初代藩主)が須坂に入部したとき仮の陣屋としても使用。古い由緒(1473年現在地へ)があり西本願寺教団のなかで信州でも別格の位置(県内真宗寺院としては最大の本堂)をしめるほど格式のある寺。寺内にある善長寺、善行寺、円光寺、元徳寺は直角に曲がった石畳みの通路(自動車通行可)で結ばれ、歴史的な堀(水路)や石垣に職人の技(治水・土木技術)が感じられます。東にそびえるのは坊主山、なんとも変わった名称でしょうか。
 織田信長に対抗した大阪石山本願寺の石山合戦には、この寺から兵糧米(注1)が拠出され、門徒(注2)が多数参加しているそうです。この合戦は約10年間続いた長期戦、長野県からも応援に行っていたとは知りませんでした。そう言えば北陸や越前の一向一揆(注3)も浄土真宗、信長との徹底抗戦は言うまでもありません。時の権力者、例えば織田信長、上杉謙信、徳川家康等は浄土真宗の布教を禁止(後に融和策)、それだけ一致団結して戦う真宗信徒を恐れていたのでしょう。
 4年前に親戚の叔父(浄土真宗)がなくなったとき、お経で禅宗との違いを感じました。 5年前に自分の父や親戚の葬式(計5回)で曹洞宗のお経を何度も聴いていたからかもしれません。それにしても禅宗はお経の時間が長いような?
(注1)常敬寺(高山村)も拠出
(注2)勝善寺(須坂市)の住職(法印)が合戦に参加し討死。
(注3)百科事典ウィキペディアによれば「一向一揆(いっこういっき)は、戦国時代に浄土真宗(一向宗)の信徒たちがおこした一揆の総称。争乱の排除をめざして浄土真宗本願寺教団によって組織された武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治であり、織田信長などによって壊滅させられるまでは各地に安定した豊かな町が築かれた。本拠地とされた摂津大坂や伊勢長島、三河矢作川流域などは湿地帯であったことから、高度な治水技術があったのではないかとの見方もされている。 朝倉氏に奪われた越前吉崎を取り戻すため何十回となく大規模な戦を起こしたり(九頭竜川大会戦)、一揆の拡大によって武家政権の基盤を脅かされることを恐れた織田信長や細川晴元ら権力者との争いを展開するなど戦国大名化して覇権を争ってもいる。しかし、1580年織田信長との抗争に敗れて本願寺顕如が大坂を退去した後は本願寺の分裂騒動もあって一向宗という名称は見られなくなる。」
参考文献
信濃毎日新聞社出版社編「信州百寺」信濃毎日新聞社、「探訪・信州の古寺2 浄土教・日蓮宗」郷土出版社、「ふるさと須坂 歴史と文化財」須坂市教育委員会、須坂市史、
長野県立歴史館編「中世信濃武士意外伝」郷土出版社

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