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2006年07月14日 明専寺

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信濃町柏原にある浄土真宗本願寺派の明専寺のようす。
 1563年三河の一向一揆が徳川家康と戦ったとき、明専寺住職は一揆を助けて戦ったり、大阪石山の合戦に参加して石山本願寺にこもり織田信長と戦った歴史があります。
 それにもましてこの寺が有名なのは小林一茶の菩提寺である点。一茶と父は熱心な信者だったそうです。子供の頃、一茶はこの境内で遊んだのでしょう。
 写真に移っている本堂前の句碑(代表的な句文集おらが春から)、このとき一茶52歳、晩年さみしかった気持ちを現しているのではないでしょうか。
 我と来て遊べや親のない雀   一茶
 小林一茶と義弟(義母も)の十数年に及ぶ遺産相続争いは有名な話。ではなぜ武士でもない農家の相続でもめたのでしょうか。この時代、長男が家督相続したはず?
 文献(信濃町誌)を要約すると「父は遺産を一茶と義弟半分にわけるように遺言。一茶は15歳で江戸へ行き、苦しい奉公生活のうちに、俳諧をおぼえ22,23歳のころから葛飾派俳人の群に身を投じ、やがて二六庵竹阿の門人となり、その後継者となった。29歳のとき一度帰郷、30〜35歳まで西国地方へ旅行。その後、二六庵の号をつき、江戸の町はずれでささやかながら業俳として生計をたてていた。一茶39歳のとき父死去。父の死後、江戸へひきかえして10年経過。文化9年(50歳)に郷里へ帰住。65歳で死去」
 一茶が江戸にいる間に一茶家の財産は2倍以上になったことがもめた原因。財産が増えたのは勝ち気で働き者だった義母がきてからのようです。
 一茶は長男であるし遺言どおり遺産の半分を主張、義弟にしてみれば兄は家のことを一切何もしていないのでおかしいと主張したでしょう。ただ、一茶とすれば義母との仲が非常に悪かったため江戸に奉公にでたといいたいでしょうか。これらは推測ですがそれぞれ言い分があっておかしくありません。
 また、同文献によると「田畑の分割終了後、屋敷と家財の分割が遅れたので一茶はそれを要求するとともに父の死から分割までの間(約5年間)の籾(もみ)代金と家賃(30両)も要求。これを明専寺住職が間にはいり11両2分にして和解。」と説明。結果的に一茶の方に分がありそう。
 現代風で言えば、相続後、分割までの間のアパート家賃を要求したもので法律的には当然の主張でしょうけど、この時代ですので義弟や義母にしてみればしっくりいかなかったのでしょう。
 ところで小林一茶のすごいところは俳人となって生涯休みもなく句を作り続けたこと。 生涯で約2万句とも言われ、1日1〜2句、2日で3句作った計算(私の試算)に。
 また、動物や子供の句が多いこと。これは浄土真宗の熱心な信者だったことも影響しているようです。
引用・参考文献
信濃町誌、信濃毎日新聞社出版社編「信州百寺」信濃毎日新聞社、「探訪・信州の古寺2浄土教・日蓮宗」郷土出版社

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