社長ブログ

ブログ内検索

2006年07月18日 忠恩寺

20060718-1.jpg

飯山市寺町にある浄土宗忠恩寺、ここは飯山藩主であった松平・本多家の菩提寺。7〜8年ほど前、親戚の葬式で初めて訪れたとき他の寺とは違った趣というか格式を感じ、後になって殿様の寺と知りました。
 飯山市には島崎藤村が書いた名作『破戒』のモデルとしたお寺もあり、その前の取材旅行のとき市街地に寺数が20数カ所もあるので驚いたようです。
飯山市観光協会:http://www.kyokanko.or.jp/shokyoto/sjpn_thr18.html
 上杉謙信公が飯山城及び城下町を整備、昔から仏壇の町・小京都と言われ歴史を感じさせる場所。しかし、平成7年後半以降、地価は下がり続け10年間で20〜30%ほど下落。積雪を嫌う人が多いためか人口減少が進んでいます。
 ところで今回、飯山藩主に興味を持ち、市誌から歴代藩主のことをブログ風(簡潔)にまとめてみました。
・松平 忠輝:1603〜1609年、家康の六男、松代藩の一部(飯山領)として。
・堀  直寄:当時4万石、1610〜1616年の約7年間、領内の新田開発、城下町の整備、社寺への領地寄進等見るべき功績を残す。
・佐久間安政〜:佐久間安政は柴田勝家の甥。佐久間家は3代24年間の治世。飯山寺町のもとをつくる。3万石(水内郡2万石と近江・常陸1万石)。この佐久間家子孫の方が少し前の長野郷土史研究会機関誌に投稿されてました。
・松平 忠倶:1639〜1696年、58年間の長期政権、4万石(上高井・高井郡)
・永井 直敬:3万3千石(2万3千石水内郡、1万石河内国)この殿様は浅野内匠頭が殿中刃傷事件で改易となったあとの播磨赤穂城主(期間4年)、この飯山城主期間も短く5年(1706〜1711)。
・青山 幸侶:歴代最高の4万8千石、城主期間7年(1711〜1717年)
・本田助芳〜:1717〜1867年。糸魚川1万石から加増され2万石に。連年の水害被害に困り領地替えを幕府に申請し認められました。当時糸魚川1万石のほうがよかったと嘆いています。幕府領になったのは本田家が徳川家譜代の大名だったことが大きいようです。比較的規模の大きい一揆騒動(安永1773年,文化1804年,天保1837年)に遭う。

 石高の変動は結構あり、松平家と本田家以外は短期間だったのですね。
 地元では飯山藩主というと約150年間治めた本田家を指すのが普通。領地を見ると長野県だけでなく他県にも有していた大名がいくつも見られるのには驚きました。
 飯山藩主の中で新田開発、治水、用水路の開発等の功労者は堀直寄と松平忠倶。両殿様は川の流れをよくするために河床に堆積した石砂を堀り流し、流れの渋滞をなくす大がかりな工事(根流し法)を実施。この作業は2〜3万人もの人夫がかりだされ、一人10日間にもおよぶたいへんな労働だったようです。本田家の幕府領地替え嘆願書によるとこの治水により松平氏時代はほとんど洪水による被害がなかったと功績を賞賛。江戸後記から治水対策費用が欠乏し河床の堀り流しや堤防工事もしなくなると、とたんに川が暴れた(川筋が移動)そうですから水害対策は今も昔も難しさは変わらないでしょう。
 また、堀直寄時代による工事跡と思われる箇所に「御堀」という字名(木島平村上木島の樽川沿い)が残されています。
 ちなみに堀直寄の弟は須坂初代藩主堀直重(6000石から4000石加増されて1万石)、松平忠輝の領地一部を分け合ったもの。それにしても江戸時代初期から中期までの大名の配置換えというか転勤が多かったこと。家臣たちは転勤でたいへんだったことでしょう。
参考文献:飯山市誌歴史編上下、「ふるさと須坂 歴史と文化財」須坂市教育委員会

この記事へのコメント

書き込んでいただいたコメントは、管理者の確認後に公開させていただきますので、ご了承下さい。

お名前
E-MAIL(非公開)
URL
タイトル
コメント
  投稿キー    [キー入力]
 
迷惑書き込み防止のために投稿キーを設定しています。
投稿キーはzf85です。上記の「投稿キー」にご記入下さい。