社長ブログ

ブログ内検索

2006年07月19日 西方寺

20060718-2.jpg

長野市西町の善光寺近くにある浄土宗西方寺(さいほうじ)のようす。開山は法然の孫弟子記主禅師。文献(探訪・信州の寺)によれば1199年に法然上人が善光寺に参拝したとき創立したとも。
 この寺の有名なのは明治4年から7年まで長野県仮庁舎の置かれたこと、庫裡は昭和23〜25年に労働基準局としても使用。平成10年、この寺の築地塀と石積が長野市景観賞を受賞、道路からも雰囲気が味わえます。
 当時はどんな県庁(行政機構)だったのでしょうか。長野市誌(15巻)の記録からブログ風にまとめてみました。
 明治4年時の県庁で働く庁員は46人、部課として左局(訴訟・駅逓・戸口・糺問・徒場)、右局(租税・生産・土木・出納)、中局(監察・貫属・社寺・学校・記録)で構成。この中で戸口は人口世帯調査、糺問は罪をただし問うこと、徒場は徒刑場。
当時の県庁は裁判所も兼務、でもそれ以外の部課は今の時代と似てますね。
明治7年に新庁舎(今の信大教育学部に、建坪二百四拾一坪三合三勺)ができて庁員も78人に増加、部課も庶務課(社寺、貫属、戸籍、文書、学校事務、進退等)、聴訟課(訴訟、県内監視、処罰、捕亡)、租税課、出納課(歳入歳出・租税・用度・旅費・修繕)に再編成。この新庁舎完成以後、続々と新施設(病院・師範学校・製糸場・裁判所等)ができていきます。洋風的な施設がたくさんでき文明開化が急速に進んでいったことでしょう。今(H17長野県職員29,286人)とは隔世の感が。
 ところで県内に浄土宗の有名なお寺は多いですね。
 例えば、
・長野市の静松寺(真田藩主真田幸貫公がたびたび訪れたところ、葛山城落城の伝説)
・松本市の玄向寺(松本藩主水野家の廟所)
・旧高遠町にある満光寺(高遠藩主内藤家、保科家、鳥居家の菩提所)
・諏訪市の貞松院(高田60万石で家康の六男松平忠輝の墓、前回ブログにも登場)
・諏訪市の正願寺(奥の細道で芭蕉と同行した俳人河合曾良の墓)
・阿智村の浄久寺(家康の側室お仙の墓)
・明科町の宗林寺(石川数正の宝篋印塔)
 この中で松尾芭蕉と一緒に旅をした河合曾良が諏訪市の出身だとは知りませんでした。名脇役ですがほとんど知られていないような。
 百科事典ウィキペディアによると「河合曾良(かわいそら 慶安2年(1649年) - 宝永7年5月22日(1710年6月18日))は江戸時代の俳諧師。松尾芭蕉の奥の細道における奥州・北陸の旅に同行した弟子。信濃国下桑原村(現長野県諏訪市)の高野七兵衛の長男として生まれる。幼名は与左衛門。その後、両親が亡くなったため伯母の養子となり、岩波庄右衛門正字と名乗る。12歳の時、養父母が亡くなったため伊勢国長島の親戚の元に引き取られる。1668年頃より長島藩主松平康尚に仕え、河合惣五郎を名乗る。1681年頃に致仕。江戸の吉川惟足に吉川神道を学ぶ。1689年、松尾芭蕉の奥の細道の旅に同行。
1709年に幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、翌年に壱岐国風本(現長崎県壱岐市)で病没。享年62。・・・・墓所は壱岐島の能満寺。1740年、没後30年してから故郷・諏訪の正願寺にも墓標が建てられた。」
参考文献:長野市誌第8巻と第15巻、「探訪・信州の古寺2 浄土教・日蓮宗」郷土出版社
<追伸>
長かった寺シリーズは次(真言宗)で最後。寺めぐりは自分自身の勉強になりました。また、気が向いたら続編?

この記事へのコメント

書き込んでいただいたコメントは、管理者の確認後に公開させていただきますので、ご了承下さい。

お名前
E-MAIL(非公開)
URL
タイトル
コメント
  投稿キー    [キー入力]
 
迷惑書き込み防止のために投稿キーを設定しています。
投稿キーはl2aoです。上記の「投稿キー」にご記入下さい。