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2006年08月07日 萩野城

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長野市七二会と中条村との境にある萩野城跡からの景色。城跡は標高1176mの西嶺(本郭と二の郭)と1184mの東嶺の山頂付近にあるたいへんな高地。この付近一体は春日郷という地名、案内板によれば春日氏の築城といわれますが、山麓農民の自衛のための城とも考えられているようです。
 春日氏の出身は佐久地方、戦国時代村上義清に属し上杉方でしたが、義清が武田に敗れて越後に逃れた後武田方に属し、武田家滅亡のあとは上杉景勝方に。そして景勝会津移封に伴い米沢へ転出。
こうしたいい景色のところはゆっくりしたいものです、ただ城跡付近にある「くまに注意」の看板を見ると早く立ち去りたくなるかもしれません。ほんとうに出そうな所ですから。くまの出没しやすい土地は宅地に限らず農地(かきやくりの木のある)も減価要因?
 ところで、前回のブログで紹介した「七家騒動」、これは抵抗勢力たる江戸家老須田満主と国家老芋川延親、奉行の色部照長・千坂高敦、侍頭の長尾景明ほか2名(清野・平林)らが騒動を 起こして処分(須田・芋川両名は切腹、千坂・色部は隠居閉門等)された事件。
 しかし、2年後には須田・芋川両名は先祖代々の功労の理由で侍組に復し、知行も元高を与えられています。これには訳がありそう。
 須田氏は先祖である須田満親が上杉景勝の時代、重臣として重要な働き(御舘の乱や本能寺の変で明智光秀との接触等)をしています。満親は柴田勝家や佐々成政と対峙し、北陸方面で軍事・外交の面で活躍したこともあって海津城主(12086石)に。武将としての有能さは豊臣秀吉にも注目され、豊臣の称号を与えられていることからもわかるでしょう。ちなみにこのとき豊臣姓をもらったのは直江兼続と須田満親の2名だけ。
 1598年、上杉家は会津への国替えを命じられ、北信濃のほとんどの武士はこれに従い移住。当時、農民以外は全て移ったようです。先祖伝来の土地から離れてしまうのですからつらかったでしょうね。
 須田満親はこの年に死亡。その後、大阪冬の陣では満親の二男須田長義が大活躍。謙信公時代に北信濃の武士の中でも村上・高梨氏は知行高も高く重臣扱いでしたが、景勝の時代になると知行や格付けも低下し、代わって須田氏が躍進。
 上杉謙信公の時代だけでなく、その子孫の時代も探ってみるといろいろ歴史に興味がわいてきます。下記文献(中世信濃武士意外伝)によれば米沢市内のNTT電話帳を調べてみると北信濃に由来する姓(井上、市川(河)、今井、須田、高梨、江部、島津、清野等)が多いそうです。なんだか米沢を訪れてみたくなりました。
引用・参考文献:長野市誌第八巻、須坂市史、長野県立歴史館編「中世信濃武士意外伝 義仲から幸村まで」郷土出版社、花ケ前盛明・横山昭男著「図説 上杉謙信と上杉鷹山」河出書房新社

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