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2006年08月08日 市河文書

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木島平村高石にある泉龍寺出入口付近のようす。この寺(曹洞宗)は市河信房によって創建(1582年5貫文寄進)されたもの。寺には市河信房の墓と言われる古い宝篋印塔があります。ちなみに私の父の菩提寺。参道は杉並木、高い石垣に囲まれていることもあり、この写真の付近から本堂を直接見ることはできません。これは城郭・城下町(長野市長沼等)などによく見られる見通しをはばむ防御の備えとなっているからです。
 市河氏は南北朝時代新田義貞軍に加わって鎌倉を攻撃したほか足利尊氏軍にも参加。戦国時代は武田方に属し、信玄死後上杉景勝に従い、景勝会津移封により転出。この時の6700石は山浦(村上)氏の6500石よりも多く、信濃武士としては5番目(注)。重臣として上杉家にはなくてはならない存在だったようです。市河家の菩提寺は常慶院、長野県栄村と米沢市にあるのは移封するとき寺も一緒に移ったため。
 また、大阪冬の陣鴫野表の戦いで市河房綱、大俣吉元等上杉軍が多数戦死。当時上杉家の重臣であった房綱の戦死は上杉景勝によって大きなショックだったことでしょう。上杉軍は大きな犠牲を払った功績もあって家名を存続できたのかもしれません。
 市河氏を有名にしたのは国の重要文化財(戦前は国宝)に指定されている「市河文書」の存在。この文書(山形県酒田市の本間美術館保管)は1170年から1569年までの詳細な歴史資料が記述されています。
 昭和44年、従来の市河文書(国重要文化財)のほかに北海道にも市河文書(欠落部分、釧路市指定有形文化財)の残されていることがニュースに。文献(中世信濃武士意外伝)によればNHK大河ドラマ「天と地と」放映時に市河氏末裔の方が公表。これにより初めて山本勘助?(山本管助)が実在したことを示す文書も含まれていたとのこと。それまで山本勘助は全くの架空の人物とされていたようですからわからないものです。ちなみに勘助の墓は長野市松代町柴の河川敷に存在(豊川市、富士市、韮崎市にも)、考えてみれば架空人物の墓まで造らないでしょうか。
 猿飛佐助や霧隠才蔵にしても存在を示す新たな文書が発見されれば脚光をあびるかもしれません。
市河家に関する詳細(須田家等も)は下記サイトで紹介されています。
http://www2.harimaya.com/sengoku/bk_kosie.html
(注)木島平村誌によると1000石以上の知行諸士(同心分除く)は以下のとおり。
須田大炊介長義20,000石、清野助次郎長範11000石、栗田刑部小輔国時8500石、島津月下斎忠直7000石、市川左衛門尉房綱6700石、山浦村上源吾景国6500石、芋川越前親正6000石、岩井備中守信能6000石、春日右衛門元忠5000石、須田式部3270石、平林蔵人佑正垣3000石、香坂与三郎昌能2100石、井上隼人2100石、大岩新左衛門2000石、須田大学2000石、栗田主膳2000石、芋川縫殿親元2000石、保科善内1500石、夜交左近1500石、大室兵部1500石
なお、山梨県に市川氏があるため市河氏として表示しました。
引用・参考文献
木島平村誌、長野県立歴史館編「中世信濃武士意外伝 義仲から幸村まで」郷土出版社、信濃毎日新聞社出版部編「信州百寺」信濃毎日新聞社

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