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2006年10月31日 武田神社

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 武田神社の回りを巡らす立派な堀、戦国時代の面影が感じられます。ここは武田信玄の躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた)があったことで知られています。当日は神社に参拝し、武田神社宝物殿を見学。
 ここには重要文化財に指定された京都・三条家伝来の名刀がありました。展示してある案内によれば明治13年(1880)に明治天皇のお供としてついてきた三条実美太政大臣が三条夫人と由縁があり、 また明治天皇のお勧めもあったため武田神社に寄進されたとのこと。また、三条夫人が真田藩(長野市)に贈ったとされる品々もありました。考えてみれば真田家は武田二十四将のひとつ、武田家三代に仕えた縁もあったのでしょう。
 三条夫人は武田信玄の正室、私はTVドラマの影響でしょうか公家の身分を鼻にかけた悪いイメージしかありません。そこで、三条夫人についてちょっと調べてみました。
 百科事典ウィキペディアによれば「三条の方(さんじょうのかた、大永元年(1521年)? - 元亀元年7月28日(1570年8月29日))は、戦国時代の女性、甲斐国の守護大名である武田信玄の正室である。父は左大臣、転法輪三条公頼で2女。姉には細川晴元夫人、妹には本願寺顕如夫人の如春尼がいる。子には武田義信、黄梅院(北条氏政夫人)、信親(龍宝)、信之、見性院(穴山梅雪夫人)がいる。・・・京都の三条邸で生まれる。三条家は清華七家の一つで、摂関家に次ぐ家柄であり極官は太政大臣。笛と装束の家として知られている。分家の三条西家には、当代随一の文化人として名高い三条西実隆がいる。駿河国の今川氏の仲介で天文5年(1536年)7月、武田晴信に嫁す。義信、黄梅院、信親、信之、見性院と、晴信との間に次々と3男2女をもうける。天文20年(1551年)9月1日、大内義隆家臣の陶晴賢による、当時貧窮のため大内邸に滞在していた父・三条公頼の斬殺、義信の謀反、信親の盲目、信之の夭折、黄梅院の離縁と27歳にしての病死など、肉親については度々不運に見舞われた。」と説明。
 信玄との間に5人も子供をもうけていたのですね。子供も長男の義信だけかと思っていました。正室との間に5人の子供がいたなんて、戦国時代あまり例のないような気がします。信玄と三条夫人は実際仲が良かったのかもしれません。
 現在の武田家は三条夫人次男信親の子孫が代々継承、信玄を初代とすれば現在の当主は14代目(拝観のしおりによる)。武田家は滅亡したと思ってらっしゃる方が多いのではないでしょうか。
参考文献:新・歴史群像シリーズ「闘神武田信玄」株式会社学習研究社

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