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2006年11月01日 信玄の京都志向

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 ここは躑躅ケ崎館の大手門付近、今、発掘調査がおこなわれているようです。
 この館は武田信玄の父、信虎が造営した平城。以後信玄・勝頼三代、62年余りにわたって武田家領国統治の中心地でした。信虎というと私は、駿河へ追放されたイメージしかありません。彼はその後、どうなったのでしょう。
 百科事典ウィキペディアによると「・・・その後、駿河の今川義元の庇護を受けて駿河で暮らした。しかし永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで義元が織田信長によって討たれると、その後を継いだ今川氏真と折り合いが悪かった。一説には氏真を廃して今川氏を乗っ取ろうと計画したとも言われている。このため、信虎は駿河を去った。この時、今川氏の滅亡が近いことを信玄に知らせたという。駿河を去った後、志摩に渡り、九鬼氏と地頭の争いで地頭側に軍師として参戦、九鬼嘉隆らを志摩より追放する事に成功する。これが後に九鬼嘉隆が織田信長に従う契機である。
 その後、信玄の正室・三条の方の縁故を頼って京都に上り、三条実綱(三条の方の兄)の庇護を受けて五条に住んだ。このとき、当時の有力者との親交を深めている。また、信玄も信虎の生活費用などを工面し、送金していたと言われている。・・・1573年に信玄が病死すると、孫の武田勝頼を頼って武田領に戻ったが、天正2年(1574年)3月5日、信濃高遠で死去した。享年81。信玄に追放された後、甲斐の地を踏むことは遂に無かった。」と記述。
 息子の正室三条夫人の縁を頼って京都に住んでいた時期もあったのですね。享年が81才ですから息子の信玄(享年53)に比べるとずいぶん長生きをして、長野県の高遠で亡くなっていたのには驚きました。てっきり駿河(静岡県)かと思っていましたから。

 ところで文献によるとこの躑躅ケ崎館は1543年火災に遭い、その年に建物の復旧工事が進められ、その際室町幕府の足利邸を真似て造ったとのこと。また、室町幕府の武家儀礼も積極的に導入。このようなことから信玄には強い京都志向があったようです。
 漫画「センゴク」最新刊(宮下英樹著・講談社)で信玄が三方原の合戦で勝利後、倒れるシーンが。病を押してまで出陣し、どうしても京都に行きたかったのですね。
参考文献:新・歴史群像シリーズ「闘神武田信玄」株式会社学習研究社

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