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2006年11月07日 野尻湖の琵琶島

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 野尻湖(信濃町)に浮かぶ琵琶島。琵琶の形に似ているのでつけられた島で弁天様がまつられています。
 中世、野尻湖は軍略上重要な地域で近くに野尻城が築かれています。川中島5度目の戦いの時、野尻城は武田信玄により占領、その後の御舘の乱(1578年)では景虎(北条家)救援の武田勝頼が近くを通っているので立ち寄ったかもしれません。武田勝頼も長篠合戦(1575年)に負けて3年後に山梨県から新潟県国境近くまで来ているのですからさぞかし疲れたことでしょう。
 さて、この島には有名な下記の出来事があります。
 下記文献(野尻湖の自然と人間)によると「川中島5度目の戦のあった永禄7年(1564)7月5日、野尻城主であった宇佐美定満(定行の本名)は、むほんのうたがいのあった長尾政景を舟遊びに招き、政景にだきついて湖の底にしずんで、上杉謙信をまもったという話が「北越軍記」などに伝えられています。琵琶島には、宇佐美定満の墓(宝篋印塔と経塚)が、野尻真光寺には長尾政景の墓(縦長の自然石)が伝えられており、一茶もここをたずね遠い昔をしのんでいます。(文化五年八月句日記)
 しかし、「上越年譜」などでは、問題の野尻湖は政景の領地であった越後南魚沼郡上田にあったと記されており、真相はナゾに秘められています。」と記述。
 また、百科事典ウィキペディアによれば「宇佐美定満は父房忠とともに越後守護の上杉氏の一門上条家に仕え、越後守護代の長尾為景と戦ったが、のちに長尾氏に降り、為景の死後はその子長尾景虎(上杉謙信)に仕えた。景虎に反抗した一族上田長尾家の長尾政景を屈服させるのに戦功があったともいう。 永禄7年(1564年)に坂戸城近くの野尻池で長尾政景と共に溺死し、彼の死後に宇佐美氏は没落して枇杷島(琵琶島)城も廃城になった。嘗て謙信に敵対したことのある政景を粛清するため、我が身を犠牲にして政景を葬ったと言われてる。」と記述していることから確かに宇佐美氏の亡くなった場所には両説があるようです。
 でも小林一茶がこの話に心をうたれて2度も日記に記しているとのことですから長野県人としては野尻湖説を信じたい心情でしょう。
 長尾政景は上杉景勝の実父、上杉謙信はその景勝(謙信の姉の子)を養子にしているのですから何かよくわからない時代。その後、宇佐美定満の次男民部が数々の戦陣で活躍したにもかかわらず父政景のことがあるので景勝は決して許さず会うこともなかったそうです。
 歴史上の出来事の真相や正確な場所はわからないことも多いようです。
引用・参考文献:信濃町誌、「野尻湖の自然と人間」信濃町立野尻湖博物館編集・発行、中村晃著「謙信軍記・上杉二十五将」(株)勉誠社、小林計一郎著「武田・上杉軍記」(株)新人物往来社、「歴史群像シリーズ戦国セレクション 疾風上杉謙信」(株)学習研究社

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