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2006年11月22日 土浦城跡

11月19・20日茨城県へ、業界団体の協議会に参加。そういう訳で今週は茨城県シリーズ。
 今回、茨城県に行くのでどうしてもよりたい所がありました。その一つは土浦市立博物館。ここには土屋家にまつわる鉄砲、史料があるのでそれを見たいがために。
http://www.city.tsuchiura.ibaraki.jp/section/kyouiku/6008/
 写真は博物館に隣接する土浦城跡の霞門。ここは江戸時代、主に土屋家(45000石)の領国でした。茨城県の不動産鑑定士に聞いたら本格的な堀があるのは県内でここだけとのこと。
土浦藩というと関流の鉄砲が有名でしょう。
土浦藩『関流古式砲術』
http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/c-1-3-4-6-siro-a.html

20061123-1.jpg

 さて、土屋家とは?
 今日は長文ですが、我慢して読んでいただければ書いたかいがあります。
 文献(宿場と街道)によれば「文禄(1830)は、天正(1582)に没した武田勝頼の250回遠忌に相当するので、土浦藩主土屋家の家臣が、はるばる土屋惣蔵や勝頼の墓に詣で、さらに恵林寺その他を廻って、富士川を下って岩淵に出て、東海道を下って帰国している。」と記述。この文献には、家臣が主君の先祖たる土屋家と武田勝頼の落ちのびていく道をたどったことが事細かに書かれています。
 その先祖とは土屋昌恒、天目山で自害した武田勝頼に最後まで従った家臣の一人。
 百科事典ウィキペディアによれば「土屋 昌恒(つちや まさつね、1556年(弘治2年) - 1582年4月3日(天正10年3月11日))は、戦国時代の武田氏の家臣。・・・・武田信玄、武田勝頼に仕えた勇将で、信玄から次代の武田氏を支える逸材として期待された。1575年、長篠の戦いにも参加して奮戦したが、このときに父と兄が戦死したため、家督を継承した。その後は衰退した武田氏から離反する家臣が多い中で、昌恒だけは武田氏に最後まで忠実だった。1582年、織田信長の武田攻めで武田氏の一門や家臣団の多くが離反していく中で、昌恒だけは最後まで武田勝頼に付き従い、勝頼が滝川一益隊に天目山で追いつめられて自害を覚悟したとき、勝頼が自害する間の時間を稼いで織田勢と戦って奮戦したが、兵の多寡は知れており、最後は討ち死にした。
昌恒は武勇に優れ、『片手千人斬り』の異名をとった。また、彼の遺児である土屋忠直は徳川家康に召し出され、江戸時代に土屋氏は上総国久留里藩の大名となった。」と記述。
 土屋昌恒は最後まで勝頼に忠誠をつくしたのですね。何か泣けてしまいます。
 武田家を裏切った穴山家・小山田家・木曽家とは対照的。織田信長は「勝頼を裏切るとは」と激怒し、小山田信茂を即刻処刑したそうですから。
 徳川家康は、1588年鷹狩りの折り土屋昌恒の遺児忠直(当時9才・後に秀忠の忠をもらう)に会い感激して駿府に連れ帰り、茶阿局の養子とし、翌年二代将軍秀忠の小姓にしています。その後、一時断絶しましたが再興し、土屋家は長きにわたり老中として幕府の中枢を担いました。
 家康は武田家の家臣を大事にしたことで有名。それは家康が豊臣秀吉によって関東へ移封された時、武田家の家臣や牢人を集めて、八王子やその周辺の村々に土着させ、甲州口の防衛にあたらせたことことからもわかります。(八王子千人同心)
 それより歴史マニアには知られているのがもうすぐ時代劇でやる忠臣蔵かもしれません。吉良邸の隣が旗本土屋邸、討ち入り時に大石内蔵助の報告を受け家臣を配備し、「もし塀を乗り越えてきた者があるなら許すな」と命じていますから。
参考文献:児玉幸多著「宿場と街道」東京美術
参考サイト:
土屋華章水晶物語:http://kasho-tsuchiya.at.webry.info/

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