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2006年11月23日 花火の大筒

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 土浦市立博物館に展示してあった花火の筒。昔の花火の筒は大きいですね。
 案内板によると「左から長さ432cm・直径63cm、長さ366cm・直径44cm、長さ182cm・直径32cmです。明治38年(1905)に日露戦争が終結した際の凱旋式の打ちあげで使用されました」とのこと。これだけ大きい筒ですから土屋家関流鉄砲の技術が伝わっているのでしょう。ちなみに博物館内は写真撮影禁止ですが、ここだけは許されました。
 ところで、前回に続き。武田勝頼に最後まで従った武将がまだいました。
 百科事典ウィキペディアによれば「小宮山 友晴(こみやま ともはる、?-天正10年3月9日)は戦国時代の武将で武田家家臣。・・・使番十二人衆の一人。弟に拈橋、小宮山昌親がいる。・・・設楽原の戦い以降、跡部勝資・長坂光堅、秋山摂津守ら武田勝頼の側近衆と仲が悪く、長篠の戦いで敵前逃亡した御親類衆に対しても厳しい態度で臨み、時折批難した。そして長坂の讒言等もあり、主君・武田勝頼からも疎まれることが多かったとされる。
それでも彼は1582年から始まる武田征伐において、武田氏御親類衆の穴山梅雪・木曽義昌は寝返り、武田信廉や武田信豊は一戦も弓を交えず早々と逃亡する状況の中においても自身の忠節を貫く為に天目山に駆け付けた。勝頼は友晴の忠義溢れる行動に涙を流し、これまでの非を詫びたという。友晴は奮戦するも衆寡敵せず鳥居畑で討死を遂げた。
小宮山友晴自身も当然勝ち目の無い戦いであるとの認識であり、友晴の三弟・又七も武田氏の滅亡に殉じるつもりであったが、友晴に説得され妻子を連れて落ち延びた。友晴は小宮山氏を代表して累代の高恩に報いたいと考え、それを果たすために甲斐武田氏の滅亡に殉じる道を選んだのである。

その後の小宮山氏
友晴の弟、中山広厳院(笛吹市)の僧になっていた拈橋が、命運尽きた勝頼一行の遺骸を弔ったと伝えられ、後に家康はこの地(甲州市田野)に景徳院を建立し拈橋を住持とした。拈橋は今に残る勝頼と運命をともにした「殉死者」の法名を全て付けたとされている。
・・・・なお、幕末の儒学者として有名な藤田東湖は、友晴のことを「天晴な男、武士の鑑、国史の精華」といってその忠臣ぶりを絶賛している。」と記述。
 この中の景徳院(山梨県甲州市)は武田勝頼一族菩提のため徳川家康が建立を命じ、1588年(天正16)に開創したもの。前回同様、家康は武田家を大事にしたことがわかります。
 私の尊敬する藤田東湖公が絶賛した人物ですから何か引かれてしまいます。
 ただ、武田家二十四将ではないのでテレビや映画などに登場することはないでしょうね。
参考文献:「新歴史群像シリーズテ神武田信玄」株式会社学習研究社

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