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2006年12月05日 佐久間象山の砲術

 硫黄島の戦いにおける最高指揮官の栗林忠道中将(明治24年生)が最も尊敬したのは佐久間象山。同じ松代町出身(長野市)だったせいもあるようです。象山は藤田東湖・吉田松陰と並び幕末の人々に強い影響を与えた人物でしょう。

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 1850年に佐久間象山は鋳造した大砲の試射をここ千曲市生萱(いきがや)でおこないました。目標の一重山をやや南にそれて千曲市小島にある満照寺(約2.2km)に落下、この寺は天領だったため一悶着があったようです。ただ、地図上で計ると約200m程度それたにすぎません。象山は西洋砲術を江川担庵のもとで学び、砲術を吉田松陰、橋本左内、河井継之助に教えていますので技術によほど自信があったのでしょう。文献(志賀高原と佐久間象山)によれば「藩命によって大砲の製造を命じられ、オランダ人ペウセルの本にならって西洋式の大砲を本格的に鋳造したのは我が国で最初(1846年)と言われています。・・・1848年には松前藩より18ポンド長カノン、12ポンド短カノン鋳造を依頼される。」と記述。
 この事件があっても松代藩からはたいしたおとがめがなかったようです。それは、1842年に松代藩主・真田幸貫が、幕府の海防掛(老中)に任命されると、象山はその顧問となり、西洋の事情について調査し海防の重要性について「海防八策」という意見書を提出していますので松代藩や幕府も厳しい処分ができなくなっていた時期でしょう。
 佐久間象山は幕末(1864)に暗殺されてしまいましたが、その教えや精神は幅広く受け継がれています。
参考文献:別冊宝島1363「栗林忠道 硫黄島の戦い」宝島社、北條浩・上村正名編著「志賀高原と佐久間象山」財団法人和合会、長野市誌

<都合によりしばらくブログを休みます>

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