社長ブログ

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2007年06月23日 満州義勇軍

 松本市護国神社内にある記念碑、「拓友の碑」。この神社内には弓道場があり、高校時代(弓道部所属)、弓道の試合で何回か訪れたこともありました。そういえば私たちの高校はここで新人団体戦県2位だったことも。

20070623-1.jpg

 この碑は私の父たち第二期満蒙開拓青少年義勇軍の方々が昭和48年4月に建立したもの。私は長野で事務所開設以来、松本に来るとき必ずといっていいほどここに寄ります。下記の碑文を読むたびに涙してしまいます。毎回のように。
 たぶん、亡父のことを思い出してしまうからかもしれません。
 建立当時、私は小学校6年生でしたが、父は正装し喜んでいったことを今でもよく覚えています。建立の委員でもあり、うれしくてしょうがなかったのでしょう。
 義勇軍当時の方々は年々亡くなり、今は次世代の方が多いと思います。父は満州のことをよく話してくれましたが、当時の私(中高生頃)は「あ、そう」という感じで真剣には聞いていませんでした。亡き今となってはもっとよく聞いておけばよかったと。

 現地で支那語を覚えた父は、捕虜になって収容所に送られる前に隣部屋で中国人の会話「明日、ハバロフスクへ送還」を聞きその夜同志と逃げてきたこと、ロシア将校が新聞を読んでいると字を読めないたくさんの人が回りを取り囲んでいた話など今の日本では考えられないことをいろいろ話してくれました。それにロシアの大砲が大きかったことも。
 父がそうだったように、この義勇軍は貧乏な家の人が多く農家の次男以下で構成され、一旗揚げようという気持ちの人が多かったと聞いています。当時、14・15歳ですから今でいえば中学卒業してすぐに行ったことに。
 父の満州での経験は、間接的ですが私の子供や孫にも受け継がれていくことでしょう。
 もう何年かしたら父の足跡をたどってみたいなと日頃思っています。

碑文
「碑に寄せて
 思えば昭和14年満蒙開拓青少年義勇軍大いなる夢と希望を抱いた三百余名の十四、五才の少年が国策の第一線興亜の大業をめざして遠く異国の地に骨を埋める決意も固く懐しい故国を後に敦賀港より壮途につきました。満州国勃利訓練所への道は遠く一日四十八キロの行程に大陸の野の花を見るゆとりもなく空腹と疲労を克服し一人の落伍者もなく到着。
 涙なくして開拓の途は歩めない辛苦の四年有余 やがて大東亜戦争勃発数多くの者が応召され或いは病に倒れ終戦を迎えました。
 その間の労苦は筆舌に尽く難いものがあります。不幸にして病に倒れ戦果に散り永遠に満蒙の地に眠る同志に対し哀惜の感に堪えません。終戦後同志を捜し求むる術もなく二十数年の歳月は水の如く流れ去りましたが同志の熱意によりここに「拓友の碑」の建立を見ましたことは同志と共に歓喜に堪えません。
当時中隊長佐藤剛吉」

この記事へのコメント
Re:満州義勇軍 by 杉田

父の足跡をたどる時一緒に行きたい.亡父は千の風になり見守ってくれてます。満州の話父から沢山聞いてます。

Re:満州義勇軍 by モリノブ

 私の母も戦争当時、満州の新京(今の長春)にいたことがあるそうです。 長春に短気留学に来ている年配の人も、何らかの事情があるみたいでした。旅の仙人、水津英夫さんともそこで知り合いました。水津さんも一時は満鉄にいたそうです。
 中国の人に助けられて、お礼に通っている人もいました。長野県出身者が多いことは、聞いたことがあります。
 中国の東北地方(満州)はまた行ってみたいですね。

Re:満州義勇軍 by 杉田様

満州へ行くときは、チャムスや大連をよく散策したいですね。

Re:満州義勇軍 by モリノブ様

父いわく「満州帰りの人は、一度は死んだ人間だ」と行ってました。先生のお母様もご苦労されたことと思います。
前に先生のホームページにある水津さんの写真集を拝見したとき感動しました。世界各地のそのままの写真に。

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