社長ブログ

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2007年07月02日 飢饉災害1

 6/27は名古屋で研修、せっかく名古屋に行くのだから徳川美術館に行こうと前々から決めていました。
 というのは前に下記文献を読んで徳川義直に興味を持ったからです。徳川美術館は徳川御三家のひとつで尾張藩徳川家関連のものを展示してあるところ。
http://www.tokugawa-art-museum.jp/

20070702-1.jpg

 文献(長野郷土史研究会機関誌)に初代藩主徳川義直の記述があります。
「『信濃史料』寛永(1641)に「山村良豊、徳川義直より栃の実進上を命じらるるにより、その料理の仕方覚を義直の用人松井三郎左衛門に進む」という綱文があげられ、松井への以下の手紙が採録されている。・・省略・・
山村良豊は木曽の代官、というより尾張藩主徳川義直の家臣でありつつ、福島に在地して事実上木曽の領主のような地位にあった人物であり、・・省略・・
今日でも、たとえば木曽の鳥居峠を歩くと大きなトチの木がいくつも目につく。それは、もと木曽住民の食生活に貢献したものであり、とくにしばしばこの地に惨害を及ぼした飢饉のときには、たいへん大きな役割をもったものにちがいない。
・・省略・・
 徳川義直は、有能な領主だったかにみえる。かれは凶年山村の食について関心をよせトチノミなるものを耳にして、みずからこれを試食しようとしたのであろう。」

 当時、尾張藩主義直がトチの実を食べることはたいへんな事件だったのでしょう。一般的に食物として認識されていなかったものを殿様が食べるわけですから。
 アクが強すぎて料理方法をしらなければとても殿様が食べられるものではないはず。
 それに当時、武士たちにとってトチノミといったら猿の食べ物ぐらいにしか思っていなかったそうです。
 現在、長野では栄村や飯山市あたりでトチ餅(トチノミの配合が多い)を売っていて、私も何回か食べましたが味のほうはちょっとくせがあります。家内や子供たちは喜んで食べますが。

 さらに驚いたのは下記の記述。
「徳川義直がトチノミを試食して、こんなうまいものが沢山あるならもっと年貢を取れといったとは考えられないが(事実うまくなかったであろうが)、トチノミなる食品の存在を知ることは、取り立てをきびしくしても百姓は食っていけるという判断を支える材料に成り得るし、たとえば救恤(きゅうじゅつ)願いに対して、それを値切る姿勢の支えにもなるのである。・・省略・・
住民にとって、君主が名君であることは、必ずしもその幸福につながるものでない。飢えた民が、配給・供出の統制ルート外に、智慧(知恵)をしぼって食料を求めたとき、その食料に統制の網をかぶせるという政治を、私たちの年代も経験したことがあるのである。」

 単に藩主がトチノミを食べて名君だったでは終わらせない、その意図の裏に隠されている目的を明確にした寄稿文にあらためて感動。作者はさすが信州大学教授(当時)。引用のため読者には真意が伝わらないかもしれませんけど。
 なお、引用にあたって一部括弧書き(きゅうじゅつ・知恵)を追加させていただきました。
塚本学執筆・長野郷土史研究会機関誌「長野第87号」昭和54年9月1日刊(復刻版)

この記事へのコメント
Re:飢饉災害1 by モリノブ

徳川美術館には、将棋盤だったか、資料が残されていると思います。徳川義直のトチノミの話と、後の年貢の関連は歴史の面白さを感じさせます。
 どんな事実も裏がありそうで、疑わないといけないのでしょうね。
 

Re:飢饉災害1 by ルン

以前、京都府の美山町 (かやぶき屋根の集落で有名なところ) で、出来たてのトチモチを頂きました。
味は忘れてしまいましたが、確かにちょっとクセがあったような記憶があります。

モリノブ様 by 内藤

先生のおっしゃるとおり将棋盤があり、3寸盤でしたが盤の回りに装飾を施し足は金箔でした。将棋の駒はちょっと厚く、角度があるので指しづらいような気がしました。お姫様の婚礼調度とのことで、将棋盤をもって輿入れするのには驚きました。

ルン様 by 内藤

トチモチは値段が高いので地元でもいっぱい食べるものではなく、ヨモギモチ、キビモチなどと一緒に味わうのがいいかもしれません。長野ではヤショウマというモチが人気あります。昔は各家庭でも作ったようですが。

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