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2007年07月06日 飢饉災害4

 東御市側から見る、噴煙のでている浅間山(H19/2撮影)。軽井沢からみるのとちょっと違って、こちらも思わず引き寄せられるよう。噴煙を見ると活火山であることを再認識させられます。

20070706-1.jpg

 文献(野馬久保遺跡)によると「浅間山は今から1万4千年から1万1千年前にかけて2回にわたる大規模な噴火をし、軽石流(火砕流)を発生させている。平成4年度の寄山遺跡の調査で軽石流により埋没した林が発見された。発見された木々は立ったままの状態で、発見面から根元までは7mの深さであった。この地は軽石流の最南東端にあたり、斜面に乗り上げる形で堆積している。そのため木々は倒れることなく立ったまま埋まったと想定される。樹種はほとんどが針葉樹のトウヒ属であり、現在より冷涼な気候であったことがうかがえる。」と記述。
 噴火は恐ろしいですね。7mの木々が立ったまま埋まってしまうのですから。
 時期によっては山の半分近くが吹っ飛んだこともあったそうで、こうなると逃げようもないでしょう。自然の猛威の前には、なすすべもありません。
 「天明の大飢饉」の時代、あの田沼意次が老中でした。大飢饉が原因かわかりませんが、失脚(天明6年)してしまいます。僅か600石の旗本から5万7000石の大名(相良藩・静岡県牧之原市相良)にまでなった田沼時代も飢饉には太刀打ちできなかったのでしょう。
 田沼意次に代わって老中となったのが松平定信、言わずと知れた「寛政の改革」をする人ですね。この定信の息子(次男)が真田藩主(長野市)の幸貫公で幕末に老中となって活躍。私のブログでも何回(2006/7/3,4・12/5)か登場、意外な人物とのつながりを感じてしまいます。
 ところで、飢饉によって人口はどうなったのでしょう。
 文献(飢饉日本史)によると「天明飢饉(1782〜1787)における人口減少は、天明二年(1782年)から四年後の天明六年(1786年)において924,134人減であり、さらに六年後の寛政四年(1792年)には195,025人減であるから、これらを合計すると、じつに1,119,159人もの人口の減少を天明の飢饉はまねいている。」とありますから、未曽有の大災害であったことがわかります。ちなみに天明六年(1786年)の日本総人口は25,086,466人。
 今の世の中、地方では人口減少が続いていますから人口飢饉かもしれませんね。
引用参考文献:
「佐久市埋蔵文化財調査報告書 第62集 野馬久保遺跡供弸患彁垓軌薜儖会編・発行
中島陽一郎著「飢饉日本史」雄山閣、南和男著「幕末江戸社会の研究」吉川弘文館

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