社長ブログ

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2008年01月25日 公文

 長野市内(2006/2/13撮影)のようす。左側に見える木、薄いピンクの花を咲かせる桜のよう。

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 私の住んでいる所は北尾張部、その南と東側は北長池、この辺一帯を朝陽地区と呼んでいます。ちなみに北長池には叔母が昔から住んでいて子供の頃から親しみがありました。その近くに住むようになっているのですから何か不思議なものです。
 朝陽地区は、文献(長野市誌)によると[律令制はしだいに崩壊し、各地に荘園が形成されるようになる。朝陽地区のかなりの部分は東条荘に属していた。この荘園は、鳥羽上皇が保延三年(1137)に建立した安楽寿院領として、平安時代末期に成立した。(略)地頭は和田氏などであった。北長池には「九門前(くもんまえ)」「公門前」という小字があった『北長池誌』。「公文(くもん)」は荘園の事務所を指すことが多い。]とあり、昔は荘園内だったようです。
 そういえば東京都知事が「泣く子と地頭と政府には勝てない」と記者会見(2008/1/11)してました。どうして地頭なんだろうと思われた方がいるのでは?
 文献(長野県の地名とその由来)に「地頭の中には幕府の威をかりて、荘園の土地や年貢を横取りする者が続出し、各地で両者間に軋轢とか紛争が絶えなかったいわれています。今日でも”泣く子と地頭には勝てない”という俗言がある程ですから、地頭などの横暴さがいかに激しいものだったかがうかがえます。」とありますから、地頭には逆らえなかったようです。
 ただ、朝陽地区の地頭だった島津氏は、今でも水田を潤し雨水を排水してくれる北八幡川を整備していますからいい人もいたのでしょう。
 もともと源義経追討を口実に御家人を全国に配置して始まった守護・地頭は、公家(荘園)と戦いをせざるを得ない状況だったのかもしれません。
 飯田市や松本市に「公文所」「九文田」「九文畑」の小字名が見られ、荘園跡地の名残を感じさせます。今では公文といったら学習塾を指すくらい違う意味で有名ですが、本来の意味は歴史がありますね。
引用文献:長野市誌第八巻541P、松崎岩夫著「長野県の地名その由来」490P信濃古代研究所

この記事へのコメント
Re:公文 by ルン

「朝陽地区」 という文字を見て、(何かに似てるなぁ??)と思っていたら、「波田陽区」 でした。

ヘンなコメントで申しわけありません。

ルン様Re:公文 by 内藤

いつもコメントありがとうございます。
確かに似ています。考えもつきませんでした。少年野球でサンライズ杯の大会がありまして朝陽地区が主催しています。最初、どうしてサンライズ杯なんだろうと思いましたが朝陽を英語にしたら理解できました。何か世の中気づきにくいことって多いですね。

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