社長ブログ

ブログ内検索

2008年02月06日 一茶の生涯12

 飯綱町霊仙寺(2007/12/3撮影)にて。白樺通りみたいな感じ。一茶もこの道通ったかも、いやないでしょう。

20080205-1.jpg

 一茶は継母・義弟と遺産相続で約12年間揉めたことで知られています。今日はその辺を詳しく。
 父の死(1801年)後、遺産交渉のため何回(1804年2回・1808年2回・1809年・1810年・1812年)か帰省するたびに北信濃(長野市・中野市・飯綱町・山ノ内町・小布施町・高山村など)で俳句をたしなむ人々を訪ね親交を深めていきます。それもあって現在、短冊、俳額、寄書、書簡、撰集があちこちに数多く残っているのですから不思議なものです。
 その遺産相続の内容は文献(信濃町誌より抜粋)を要約しますと
 一茶の主張:遺言のとおり自宅及び田畑の財産を1/2要求するとともに父の死(1801年)から1813年に至る籾(もみ)代金と家賃合計30両
 継母・仙六(義弟)の主張:一茶が江戸に行っている間に懸命に働き財産は2倍になったのだから単純に半分はおかしい。
 一茶の主張している家賃というのは、父の死から12年間の田畑収入で今で言えば田畑から収穫した農産物の売上げや12年間の屋敷半分の家賃収入がそれに当たるでしょう。
 町誌に「一茶は家半分は自分に譲られたものとして、父の死後、毎年金一分ずつを伝馬役金として柏原宿問屋に納め、その権利を確保していたのである。(役金免除願)一茶は機を見て父の遺言の実行を弟等に迫るつもりだったに相違なく(略)」と準備を着々と進めていたようです。
 結局、菩提寺の明専寺住職の仲裁により家賃を30両から11両2分に負けたほかは一茶の主張が認められました。この和解文書(取極一札・熟談書付)が今も残っていて貴重な資料となっています。
 継母や仙六は悔しかったでしょう。それが約12年にも及んだ争いの原因でした。
 この和解後、一茶は仙六から差出させた十一両二分を母の実家に年利1割2分5厘で預けたほか、「田四反〜五反(二石七升)、畑三反(一石五斗五合五勺)と山三ヶ所、二百五十坪の屋敷の半分と土蔵と仏壇を得ることになった。」(「一茶を探りて」より)
 一反は300坪=1000(正確には991.74)ですから4000〜5000屬凌綸帖3000屬糧、山3か所、826(うち半分)の屋敷(注)を得るようになったのですからうれしかったことでしょう。
(注)信濃町誌に「小林家の屋敷地は間口九間三尺八寸、奥行二十三間一尺であったが、それを間口四間三尺二寸ずつにわけた。」と記述。
 この騒動中、一茶は前々回で記述した「父の終焉日記」で継母・義弟との息詰まる対立を描いているほか、下記のような恨みつらみの句を詠んでいます。
「ふるさとやよるとさはると茨(ばら)の花」「ふるさとは蠅まで人をさしにけり」「雪の日や古郷人(ふるさとびと)のぶあしらひ」
 ただ、奇妙なことは遺産分割後、両家が仲良くしたことです。それは墓参りや食事を一緒にしていたこと、一茶死後に義弟が一茶の句碑を建立していたことなどからも理解できます。たぶん、継母や義弟に対する一茶の文章表現がひどく大げさだったのでしょう。
 紛争当事者が分割後に仲良くするなんてことは当時ならず今でも極めて珍しいことかと思います。一応、家裁調停委員・参与員のはしくれとして。
引用参考文献:信濃町誌302P,303P、千曲山人著「一茶を探りて」12P,13P文藝出版、千曲山人著「一茶に惹かれて」24P,25P文藝書房

この記事へのコメント
Re:一茶の生涯12 by モリノブ

 生々しい話ですね・・。遺産をめぐる争いは、人の醜さしか見えない面がありますね。その後仲直りするのは、今でも珍しいことでしょうね。
 あると揉めて、ないと苦労する、財産は皮肉です。

モリノブ様Re:一茶の生涯12 by 内藤

一茶は遺産相続に係る句をたくさん残しています。故郷でも好きな俳句をやりたいけど食べていかなければならない、そういったはざまに苦しんでいたと思います。単なる風流人ではないところが一茶らしいのかもしれません。

書き込んでいただいたコメントは、管理者の確認後に公開させていただきますので、ご了承下さい。

お名前
E-MAIL(非公開)
URL
タイトル
コメント
  投稿キー    [キー入力]
 
迷惑書き込み防止のために投稿キーを設定しています。
投稿キーはy5x9です。上記の「投稿キー」にご記入下さい。