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2008年02月07日 一茶の生涯13

 長野市七二会(なにあい・2007/1/25撮影)から。日々仕事に追われてますとこういうところに来て一服したくなります。

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 江戸時代後期に書かれた滑稽本「東海道中膝栗毛」の作者で有名な十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)は、当時の信州をこうたとえています。
「儒は太宰・すもう雷電・武士真田・ソバに月見に一茶・何丸」(長野市誌より)
 今?でいえば「巨人・大鵬・卵焼き」の長野県版でしょう。
 相撲の雷電(らいでん)は強すぎて横綱になれなかった言われた人、この中で一般に知られていないのが太宰と何丸。
 太宰とは太宰春台(だざいしゅんだい)のことで百科事典ウィキペディアによると
「江戸中期の儒学者・経世家。(略)信濃飯田藩出身。父言辰に従い江戸へ出て、学問を修める。元禄7年(1694年)に15才で、但馬出石藩の松平氏に仕えるも、辞官。畿内に遊学する。その間に古学派に親しみ、正徳2年(1712年)に下総生実藩の森川氏に再仕官。だがこれも辞し、以後生涯仕官することはなかった。その後、中野姥に師事し、後に荻生徂徠の門に入る。」と紹介。ちなみに何丸(なにまる)は次回紹介します。
 一九(1765年〜1831年・67歳没)は一茶(1763〜1827・65歳没)と同じ時期に活躍した作家でした。それに長野県には4回取材に訪れ、「続膝栗毛」に(善光寺道中)(木曾街道)の作品を残しています。
 弥次さん、喜多さんも善光寺を訪れていたんですね。知りませんでした。東海道だけかと。
 一九は4回も来ていたなんて、ソバがきっと好きだったんでしょう。それに温泉もありますし。
 文献(江戸から見た信濃)に
「第一回 文化八年(1811)八月七日、一九は、軽井沢から信濃追分、和田峠を越え下諏訪、木曽路を通って中津川へ出て江戸に帰った。
 第二回 善光寺取材で、文化十一年(1814)の七月、木曽路から松本、大町、善光寺を取材して、越後の高田、会津経由で帰京した。
 第三回 文政元年(1818)には、『北越雪譜』『秋山紀行』の作者・鈴木牧之(すずきぼくし)に会って、小千谷から信州に入り、また善光寺に参詣して、こんどは須坂に出て大笹街道から草津温泉に抜けて江戸に帰った。
 第四回 最後は文政二年に、甲府から諏訪、伊那、飯田から大平を越えて木曽路へ入り、松本、保福寺峠から上田、松代へ。さらには地蔵峠から上田に出て軽井沢、碓氷峠から帰った。このときの体験が『金草鞋(かねのわらじ)−善光寺より草津の記』や『滑稽旅加羅寿(たびがらす)』の作品になった。」と記述。
 一茶が故郷信濃町に帰ったのが1812年11月、50歳のとき。もしかしたら善光寺で会っていたかもしれませんね。
 一茶を探っていくと思わぬ人物の知られていない面が見えるような、見えないような。
一茶「名月や西に向かへばぜん光寺」
引用参考文献:長野紙誌第八巻347p、徳竹康彰著「江戸から見た信濃」87p,88p柏企画、矢羽勝幸監修「一茶の生涯と文学」一茶記念館、千曲山人著「一茶を訪ねて−一茶と善光寺」文藝書房

この記事へのコメント
Re:一茶の生涯13 by モリノブ

 十返舎一九は弥次さん喜多さんですね。京都の鴨川のところに石碑がありました。
 善光寺もそうですが、蕎麦も魅力の旅だったのでしょうね。昔の歩く旅は重みを感じます。
 一茶の句は簡明にして輝くものがあって、すぐに暗記できそうなのが凄いです。説得力があるなあと思います。

モリノブ様Re:一茶の生涯13 by 内藤

コメントいつもありがとうございます。
十返舎一九はいろいろ書いていました。特に続膝栗毛ではあちこち旅していて。一九は葬式のとき体に巻き付けた花火が鳴り参拝者を驚かせたそうです。人々をたいくつさせない人だったのだと思います。

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