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2008年02月09日 一茶の生涯14

 和田神社(長野市西和田)にある何丸(なにまる)の句碑(2007/12/6撮影)。すいませんが、達筆でなんと書いてあるのか読めません。お地蔵さんがありましたし、ついでにお参りもできました。最近、長野市内では何丸の顕彰が進みつつあります。
 何丸(1761〜1837・77歳没)は長野市吉田出身の俳人であるとともに芭蕉の研究家として一部の人に知られていて一茶と同時期に活躍しました。

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 前回の続き、長野市誌によると何丸をこう紹介しています。
「芭蕉の俳諧の研究に専念し、江戸に出て(文政二年、五八歳)田原町に開庵した。文政六年(一八二三)俳諧七部集の最初の注釈書『七部集大鏡』は名を全国に知らせた。文政七、八年ころ刊行された「諸国正風俳諧師番付」に上位から三番目に記載されている。
(略)京都の二条家から文政七年(六四歳)「月院社大宗匠」を許された。さらに天保三年(七二歳)「俳諧奉行職御代官」を仰せつけられた。『芭蕉翁句解参考』など三〇巻もの著書がある。」
 文献(一茶に惹かれて)に「幼少から学問好きで、長じて書画を愛し江戸、京都、大阪を往来して書画の売買を業としていた。この商売を通じて、大島完来、大伴大江丸、夏目成美、倉田葛三らと交際している。」と記述。
 「諸国正風(しょうふう)俳諧師番付」は今風に言うと俳人番付にあたり、上位から三番目は小結の位にありました。何丸の友人大島完行は1800年頃の番付では関脇、倉田葛三は1811年頃の番付では小結と、すごい人ばかり。交際範囲が広かったことを物語っています。 
 出した書籍は上記のほかに「俳諧明題鑑」「男草紙1〜9編」「俳論語」「上洛紀行」「七部集小鑑」など数々ありますが、ほとんどが晩年のものばかり。 これはどうしてかといいますと59歳(吉田のあゆみの記述による)のときに医者や書画の売買業を辞め、俳諧業で身を立てようと江戸に向かったからで、初老近い年齢になって決意するのですからすごいものです。文政8年・9年のとき何丸は65歳頃ですから晩年になって芽が出たことになります。いいですね、大器晩成で。
 「大宗匠」はたいへんな位で今で言えば家元みたいなものでしょうか。世界は違いますが確か千利休も「大宗匠」ですから。
 何丸の死後、息子3人(長男・次男・三男)が俳人となるのですから喜んだことでしょう。特に長男(公石)も大宗匠判者となってますから。
月院社何丸「只涼し水ものぼらず月も来ず」
 何丸一茶同時期に生きた両者が同じ信州出身であるにもかかわらず一切交流がなかったのは不思議なものです。お互い仲が悪く、ライバル意識が強かったようですし、一茶にしてみれば大宗匠という肩書きには興味がなかったでしょう。それに俳諧を副業のようにしていた何丸には負けたくないという気持ちがあったのかもしれません。私の推測ですが。
引用参考文献:長野市誌第八巻、千曲山人著「一茶に惹かれて」124p,125p文藝書房、長野市吉田区長会編「吉田のあゆみ」187P〜191P

この記事へのコメント
Re:一茶の生涯14 by モリノブ

 何丸とは奇妙な名前ですが、面白そうな人物ですね。バイタリティーがありそうです。
 一茶も相当にプライドが高くて負けず嫌いだったように思えます?

モリノブ様Re:一茶の生涯14 by 内藤

文献(一茶に惹かれて)に一茶と何丸がお互いに句を酷評しあう箇所が記述されています。犬猿の仲だったようですが、それを読みますとそれぞれ学識が高かったことが伺えます。人の句を批判するのも実力がなければできなかったからかもしれませんが。私の前の事務所が何丸出生地の近くだったのでちょっと親近感があります。

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