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2008年02月10日 一茶の生涯15

 中野市牛出(2006/3/13撮影)付近、中央の白い山は高社山。この辺一茶はよく通ったことでしょう。

20080210-1.jpg

 一茶の俳諧評価はどうだったのでしょうか。
 当時「諸国正風(しょうふう)俳諧師番付」「俳諧士角力番組(はいかいしすもう)」「諸国俳諧師座定」の俳人番付を年代ごとに見ていきますと。
 1800年(38歳)頃:前頭下位。このとき西関脇が一茶の友人で支援者の夏目成美。この頃は一茶が関西旅行から帰ってきたこともあり、関西発行俳人番付では5番目に位置しています。関西でも実力が認められたのでしょうか。
1811年頃(49歳頃):前頭5枚目、このとき大関道彦、関脇乙二(おつに)、小結対竹(たいちく)らは一茶の友人。
1821年(59歳・文政4年):差添役
1822・1823年(60・61歳・文政5・6年):勧進元
1823年(61歳・文政6年):行司(「諸国流行俳諧行脚評定」より)
1825・1826年頃(63・64歳・文政8・9年):世話人(5人中筆頭)、このとき何丸(前回ブログ参照)は小結
1826年(64歳・文政9年):西の方「諸国」最上段2人目(大関が最高位のため関脇?)

 この差添役、勧進元、行司とは?
 文献(小林一茶)によると[俳人番付は、相撲番付にならって行われた諸国俳人の序列化であるが、この番付の場合大関(東西各一人)が最高位で以下関脇・小結も東西各一人、それ以外はすべて前頭である。この東西の位置より一段高いランクが中央に設けられている「柱」で、行司、頭取(とうどり)、勧進元(かんじんもと)、差添(さしぞえ)などに各々俳人が据えられている。]と説明。
 一茶は1827年11月19日(文政10年)に65歳で亡くなってますので前頭上位や「柱」の常連となるのは故郷に帰るちょっと前からになります。他の著名俳人(成美・道彦・乙二など)のように門人を多数抱え、長となっていたわけではないので、一茶の番付は実力そのものでしょうか。
 故郷に移り住んでもなお一茶の名声は高まる一方だったのは不思議な気がします。人気番付だけに、格付けや権威に興味がなかった一茶でも気になったことでしょうね。
 ちなみに下記文献見ますと皆、矢羽大学教授のものばかり、すごいものです。
一茶「蛼(こうろぎ)は霜夜の声を自慢かな」
引用参考文献:矢羽勝幸著「小林一茶」76p勉誠出版、矢羽勝幸監修「一茶の生涯と文学」27p,63p一茶記念館、矢羽勝幸資料監修「一茶ゆかりの里」一茶ゆかりの里、矢羽勝幸著「信濃の一茶」203p中公新書

この記事へのコメント
Re:一茶の生涯15 by モリノブ

 番付けは、江戸時代に将棋にもあったみたいです。天野宗歩が大関とか。
 一茶の活躍した頃は200年前なのに、もっと古い気がします。一茶研究の矢羽大学教授という方も凄そうな雰囲気がありそうですね。

モリノブ様Re:一茶の生涯15 by 内藤

この番付をめぐって事件になったこともあったようで、俳人たちは一喜一憂していたようです。矢羽先生は一茶研究の第一人者と言われているだけあって恐れ入ります。

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