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2008年03月15日 さらさら越えの帰路

 白馬村の水田地帯、何かきれいだなと思って。

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 3/4は安曇野市、大町市、白馬村を経由し、小川村・中条村を通って帰ってきました。
 途中、白馬村から小谷村まで足を伸ばそうと考えましたが、仕事は忙しいですし、いつまでも遊んでいるわけにもいかないので。
 ところで、佐々成政一行(50人程度)はアルプス越えをし、静岡県の浜松城で徳川家康に対面しました。その後、望みかなわずむなしく帰って行くことになりますが、帰路はどういうルートだったのでしょうか。また同じ道をたどった?
 加賀藩史料によると上路(あげろ)越えの説が有力なようです。
 文献によると「来馬−大所−山之坊(新潟県、当時は徳川領)−大峰峠(651m)−赤禿山(1158m)−清水山(607m)の裏山−明星山(1188m)の裏山−橋立−上路−サイノカミ峠(富山県)−大平−境。
上路から境までの道すじは、越中と越後を結ぶ唯一の道すじで、成政も上杉攻めで(天正11年2月)落水付近(青海)まで進出しているので(石坂孫四郎氏所蔵文書)、知っているはずである。大峰峠、赤禿山、明星山などの山越えは、積雪のため難儀するとはいえ、三千メートル級の北アルプスを越すよりも楽である。(略)」と記述。
 安曇野市−大町市−白馬村−小谷村(来馬・姫川温泉)−糸魚川市(大峰峠・明星山・橋立)−富山県へと帰っていったのでしょう。姫川温泉でお風呂に入ったかも。
 今でしたら高速道路があるので橋立から海沿いの国道8号を経由して親不知にでたくなります。
 いずれにしろ往路よりは復路のほうがらくだったようですが、1月下旬から2月上旬の行程ですから、それにしてもすごいことです。
 その後、往路の成功を知った前田利家は、アルプス越えのルートを通行禁止にしてしまいました。
 文献によると「利家は自国防衛の立場から、さらさら越えの道すじを御締(おしまり)山(一般の立入禁止区域)とした。そして芦峅寺にその監視を命じ、道すじで発見した者は、打ち捨て御免として厳しく警戒させた。ただし、立山登拝の道は許したが、定められたコース以外は法度とした。」と記述。
 そこまでしなくても誰もアルプス越えなんかしなかったでしょうけど。よほど心配だったのでしょうか。
 新宿の事務所(大河内不動産鑑定事務所)の先輩で不動産鑑定士佐々木氏(富山県・享年40歳)が生きておられたら佐々成政のことなんかも詳しく聞けたのになと思いつつ帰路に。
引用参考文献:遠藤和子著「佐々成政」130p,131pサイマル出版会

この記事へのコメント
Re:さらさら越えの帰路 by モリノブ

 当時のアルプス越えでは、どんな格好だったのでしょうか。佐々成政に比べて、前田利家が意外に保守的に見えますね。いつもながら、青空と雪の白さがさわやかですね。実際は寒いのでしょうね?
 

モリノブ様Re:さらさら越えの帰路 by 内藤

佐々成政は前に末森城(石川県)攻めのとき、ガラガラ越えというたいへんな山道を通って奇襲作戦を成功させていますので、アルプス越えはそれほど苦痛とは思わず挑んだのかもしれません。
戦国期は暖冬でもあったのが幸いしたらしいです。
服装は歩くとき、綿入れの着物程度で、カモシカ、クマの毛皮や防水着をきたこともあったそうです。今と同じで手足には皮手袋、皮足袋をつけたそうです。今だと登山を連想してしまいますが、猟師がよく歩く道を通過しています。成政は駕籠だったかもしれません。

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