長野市松代町西念寺にある君ケ嶽の碑。地元でも知っている人が少なくて、これだろうなと思って写真に。
3月下旬に案内板が設置されたそうです。江戸時代末期とはいえ、長野県が生んだ偉大な力士に間違いないでしょう。
http://matusiroburogu.naganoblog.jp/e92252.html
文献(信濃力士伝)によると「君ケ嶽の幕内在位は七年14場所、全休は一場所もなく、この間に前述の鏡岩をはじめ、当時技能派の名人力士といわれた関脇荒馬や、後に大関に昇り、後世古今上手投の三大大関の一人と評された猪王山などを倒している。また、本場所ではないが、嘉永4年5月の大阪興行のとき、当時稀有の名人大関といわれ、横綱推薦の声までかかった劔山(剣山)を降す殊勲も記録している。(略)嘉永七年八月十八日現役力士中に急死。(略)
君ケ嶽生前の最後の本場所となった嘉永七年二月場所直前、横浜停泊のペルリ一行の米艦乗組員の前で行われた江戸相撲幕内力士土俵入りに君ケ嶽も参加。幕府から米国側へ白米二百俵を贈り、神奈川詰奉行の命によって力士一同がこれを米艦に搬入、君ケ嶽もその一人として米俵を運んだが、力士たちの巨体と腕力とは米人を大いに驚嘆させたと伝えられている。」
すごいですね、幕内筆頭とは。それにあの剣山まで倒したことがあるのですから。
君ケ嶽の最高位は前頭筆頭(嘉永5年は1852年)。番付によると嘉永5年11月場所は前頭筆頭で三勝三敗一引分、同6年2月場所は一勝五敗一引分の成績。ただ、松代町史では最高位を小結として紹介しているようです。
嘉永五年十一月場所幕内番附表
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/bindex/b185211.html
新入幕のとき、すでに34歳であったとか。剣山(嘉永5年引退)は50歳まで大関を張ったそうですから、当時の30歳代は若手だったのでしょう。
剣山(博物館だより)
http://www.city.toyama.toyama.jp/shisetu/bunka/html/tayori/tayori42/tayori42.htm
そういえば私の師匠が言ってました。ペリー(ペルリはオランダ語風発音)来航(注)のとき、ペリー一行をお相撲さん達が両脇に並び出迎えたとか。江戸幕府とすれば威嚇の意味があったのでしょうけど。それにしても大きくて驚いたでしょうね。
(注)ペリーは、来航時の艦隊に学者を多数同行させ学術的報告書としてまとめ議会(1856年日本遠征記として)に報告しています。
引用参考文献:中村倭夫著「信濃力士伝 江戸時代篇」169〜171p甲陽書房
百科事典ウィキペディア「ペリー」