善光寺本堂の裏手にある供養塔。だれも立ち止まらないくらい、ひっそりしています。
この供養塔は江戸時代末期の六十余年間にわたり、北信濃の相撲支配権を握っていた江戸相撲年寄二十山(はたちやま)の五代木曽川伝吉(向かって前列中央)、六代剣山谷右衛門(前列左)、七代鰐(わに)石文蔵(前列右・長野市北徳間出身)のもので木曽川を慕う相撲関係者の手で建てられたそうです。
特に長野市三才出身の木曽川(1836年71歳で没す)は、現役時代ほとんど成績らしい成績を残していません。ではなぜ、供養塔まであるのでしょうか。
文献(信濃力士伝)によると「木曽川伝吉は、本名駒沢重五郎。歿年から逆算すると安永二年の出生と推察される。
はじめ、地元の草相撲力士として相撲をとり、後に江戸相撲二十山部屋に入門したらしい。寛政八年十月場所序ノ口二十五枚目に初めて名を出したが、序ノ口に在ること実に足掛六年十場所、序二段でも足掛六年十一場所停滞し、文化元年三月場所の東序二段九枚目を最高位として、同三年十月場所限り引退、年寄二十山を継承している。
主な土俵歴
寛政八年 十月 東序ノ口25
享和元年十一月 東序二段35
〇文化元年 三月 東序二段9
同 三年 十月 東序二段12
右のように、三段目すら一度も昇れず、序ノ口・序二段に十年余も停滞していたことから考えて、力士としては問題にならぬ存在であったかと思われる。
しかし、年寄二十山となってからは、相撲会所中でも経営の才にぬきんで、引退後五年目の文化八年十一月場所には差添、更に同十三年二月場所には勧進元の重職をつとめ、本場所興行運営の中心になっている。
当時、これも三段目の下位力士出身ながら、江戸相撲会所第一の手腕家と言われ、屢々会所の筆頭の地位を占め、小県郡長瀬村(現・丸子町)の石尊大権現境内に本拠を置いて、全信州の相撲支配権を握っていた相撲年寄浦風林右衛門直政(稲出川市右衛門)と提携、浦風から高井郡の地盤を譲り受けた。高井に地盤を占めた二十山は、浦風の本拠長瀬村と村名類似の間長瀬村(現・中野市)に稽古場を設営し、江戸相撲二十山部屋の力士を養成、門下から後に稀有の名大関と評された劔山谷右衛門を育て上げている。また、この稽古場においては地元草相撲力士の育成にも尽力し、草相撲の発展に貢献した足跡も大きく、善光寺の供養塔台右に名を刻まれている人々は、この草相撲力士中の代表者であろうと推察できる。」と記述。
相撲では成績を残せませんでしたが、いまでいえば相撲協会の重鎮となったほか名大関といわれた剣山を育てた師匠でもありました。指導者としての力量は卓越したものがあったのでしょう。
私の長男が少年野球をやっていたとき、コーチの印象深い言葉をふと思い出しました。
「小学生のとき野球で芽がでなくても、中学生や高校生で芽が出ればいい。だめなら大学生、社会人で出ればいい。一生懸命頑張っている子はどこかで芽が出るでしょう。たとえでなくてもコーチになって教え子が頑張ればこんなうれしいことはない。」
まさしく「そうだなー」と今でも思います。現役時代、芽のでなかった木曽川は師匠として大輪を咲かせましたね。
引用参考文献:中村倭夫著「信濃力士伝 江戸時代篇」140〜142p甲陽書房、長野市誌第八巻391p、小林計一郎著「善光寺さん」270p銀河書房