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2008年04月07日 信濃力士伝4

 中野市深沢にある高社大橋付近(2007/12/12撮影)。ここは間長瀬の近くですから、あの剣山は間長瀬道場で修行中、この風景を楽しんだかもしれません。
 雲の形がちょっといい感じでしょうか。
 私は今日で47歳に。生まれた日をくっつけた年ですのでちょっと不思議な感じです。

20080407-1.jpg

 前回ブログに記載しましたが、名大関剣山は二十山(木曽川)の弟子になり、中野市間長瀬にある道場で相撲修行を積んだ後、江戸に上がったようです。
 中野町誌(旧中野市誌)に中野市中野にある如法寺観音堂に剣山が心願をかけて江戸に上がり、大関になった後、同観音堂に土俵四本柱を免許している記述があります。それに二十山を相続した後に長野市北徳間の八幡社・諏訪社両社に永代四本柱土俵を奉納したほか、長野市豊野町浅野の白鳥明神に奉納相撲を免許していて草相撲発展に尽力した足跡が伺えます。出身は富山県ですが、信濃力士の一人としても十分でしょう。
 剣山は最初(三段目)は長州藩、小結のときから四国阿波藩蜂須賀家のお抱え力士になっています。剣山は四国阿波の名峰からとった四股名だとのこと。長野県の雷電もそうですが他県のお抱え力士ですからいろいろ苦労もあったことと思います。
 文献(信濃力士伝)によると「全盛期の弘化二、三年ゴロ相撲会所内に剣山を横綱に推薦しようとする意向がおこったが、剣山は自らの体躯が小さく(註・・五尺六寸=1.697m.
三十四〜五貫=127.5〜131.25kg)、土俵入りが貧弱であるという理由で辞退し、相手方の西大関秀ノ山雷五郎を推薦し、秀ノ山が第九代横綱を免許された。しかし、秀ノ山は自分の実力が剣山に及ばないことを知っていたので、常に剣山を東方に推したという相撲美談が残されている。(略)
 剣山は当時の不知火(第八代横綱)・秀ノ山の両横綱と共に天保の三傑と評されたが、実力はこの両横綱を凌ぎ、十両の関取格昇進後引退後までの引分け、預り、無勝負を除いた三力士の成績を比較すると、左の通りになる。
不知火 85勝 26負 勝率76.57%
秀ノ山 123勝 30負 勝率80.37%
剣山 160勝 39負 勝率80.40%」と記述。
 横綱になれなかったのは長野県の雷電ばかりかと思ってました。ただ、当時の庶民は皆剣山のことを最強の力士と思っていたことでしょう。
 それにしても強い力士がいたものです。
 単に大きさでしたら、長崎県出身の大空(2.21m)のように道で牛に会い、これを跨いで歩いたと伝えられる力士(土俵入りだけつとめた)にかないませんが・・・。 
引用参考文献:「中野町誌」322P中野町役場(大正9年復刻版)、中村倭夫著「信濃力士伝 江戸時代篇」222p,224〜225p甲陽書房

この記事へのコメント
Re:信濃力士伝4 by ルン

遅くなりましたが、お誕生日おめでとうございます!(^^)!
今年もよい1年でありますように。

長崎の大空という力士、すごい大男ですね。
「牛を跨いだんだぞ!」
「なんと牛を跨いだんだとさ」 と大騒ぎする当時の人たちが、なんとも素朴で好感がもてます♪

Re:信濃力士伝4 by 内藤

ルン様、こういう逸話は面白いですね。牛をよけるのが面倒くさかったのかもしれません。
江戸時代でも2m前後の力士は多くいたようです。
先日50歳そこそこで早期退職された方がいて、あと数年で自分も退職する年かと考え込みました。早いものです。

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