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2008年04月08日 信濃力士伝5

 長野市松代町清野の田園風景(2007/9/22撮影)。この近くの林正寺には同町清野出身の松井須磨子の墓があることで知られています。そのうち、中山晋平シリーズでもとは考えていませんが。
 地名の由来となった清野家は戦国時代の武将として活躍し、上杉景勝の家来(家老)として会津に行きました。一族には中野市豊津に移り住んだ子孫もいるようです。

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 この松代町清野出身の力士鷲ケ浜が江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍したことは意外と知られていません。今日はちょっと長いですので気楽にお読みください。
 文献(更級郡・埴科郡人名辞書 復刻版)によると「埴科郡松代町馬喰町の人。伊平治の長子。生来の大力で、力士を志し、家を弟伊左衛門に譲り、江戸に出て、花籠部屋で修業。業大いに進み、東京角力の関脇となり、年寄となりて、鷲ケ浜といった。(略)明治七年郷里清野村の馬喰町で興行をし、二十四年象山開園の際、鷲ケ浜、二十山共同で東京相撲の奉納で、象山山頂において興行したといふ。(略)」とあります。
 ただ、文献(信濃力士伝)作者の中村氏の研究によれば前頭三枚目だとか。それにしてもすごいものです。
明治六年十二月場所幕内番附表
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/bindex/b187312.html
 上記番付では前頭四枚目ですが、文献(信濃力士伝)によると前頭筆頭高砂浦五郎が、相撲界改革の旗印をあげ相撲会所から除名された影響だそうです。昔もいろいろあったようです。このような番付表を作成していただいた坪田氏に感謝、感謝。
 文献(信濃力士伝)によると生家には昔、鷲ケ浜が造らせたという便所が残っていたそうです。というのは「古今の大力士第四代横綱谷風梶之助も、普通の便所では、からだの重みで踏み板を壊してしまうため、特別に堅牢な便所を造らせたそうであるが、鷲ケ浜の場合も、おそらく同様な理由で自分のための便所を造らせたものと思われ、鷲ケ浜が小兵力士でなく、相当な体躯の持ち主であったことがわかる。」とありますから。
 お相撲さんですと踏み板まで壊してしまうようです。昔のことですから家外の離れのようなところにあったのでしょう。私の実家は昔そうでした。夜、トイレに行くのが怖かったですね。
 それに大力=怪力の持ち主であったとか。
 同文献に「鷲ケ浜は前述した通り、明治九年四月場所限りで引退したが、地方巡業には参加し、同年十月、福岡県下巡業中、旧筑前秋月藩の反政府党の賊徒が蜂起し、熊本の神風連と呼応して豊前地方に乱入したので、力士一同は県令の依頼によって、官軍に加盟助勢して、奮闘、賊徒の幹部等を生け捕ったが、このとき、鷲ケ浜も参加して怪力を揮(ふる)っている。」とあり、このとき、家の通し柱に使うような巨大な角材を振り上げて賊徒と闘う鷲ケ浜の絵が残っています。恐ろしいくらいの怪力だったようで。
 生家の菩提寺である松代町御安町の竜泉寺に墓があるかと思いましたらはっきりしないとのこと。鷲ケ浜が活躍したのは明治初期頃ですから激動期の時代だったことに。明治維新でも相撲は盛んだったようです。
 実の息子が行司(注)になってますから、天国で相撲談義に花を咲かせているかもしれませんね。
(注)「木村庄三郎」。ちなみに「木村庄之介(21代)」も長野市出身です。百科事典ウィキペディア参照。
引用参考文献:信濃教育会更級部会・同埴科部会編「更級郡・埴科郡人名辞書 復刻版」象山社、中村倭夫著「信濃力士伝 明治大正篇」27p,28p,34p,36p,37p甲陽書房、長野市誌第九巻

この記事へのコメント
Re:信濃力士伝5 by ルン

幕内番附表

むかしの力士は本当に強そうな名前が多いですね。
特に、姫路の ‘雷電 震右エ門’ というのがスゴイと思いました。

木村庄之助

かなり長い間、「木村庄之助さんというのはずいぶん長生きの人なんだな〜」 と思い込んでいました。

ルン様Re:信濃力士伝5 by 内藤

雷電のように雷がつくような力士、あまり見あたりませんね。親方や力士も気後れしてつけにくいのかもしれません。
雷電は何人かいまして、江戸後期の雷電を特集する予定です。行司の最高位は木村庄之助ですが、これも地位があって発祥が長野ゆかりの人という説があります。真田藩の影響らいいですが。

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