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2008年04月15日 信濃力士伝9

 雷電が小さい頃、田畑の行き帰り鋤(すき)にこの石をぶら下げて足腰を鍛えたと言われています。私でしたら間違いなく体がひっくり返ってしまうでしょう。

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 この雷電、一般に相撲の強さしか強調されないような気がします。生涯にわたって10敗しかしておらず、同じ相手には二度(注)負けないというほどの強さでしたから、それも当然でしょう。
 ところが、雷電は相撲が強かっただけではなかった?が今日の内容。
 文献「雷電為右衛門(上)」によると[相撲が超人的に強かっただけではない。力士時代の旅日記ともいうべき『諸国相撲控帳』(続に『雷電日記』という)を二冊、そして現役を去り、雲州藩の「相撲頭取」となってから、その公文書メモといった『萬御用覚帳』一冊を、前後三十一年にわたって書き続けている。大力士としては、まさに稀有の例といってよい。
読み書きそろばんなどには無縁の力士が多かった江戸時代のその頃、これだけのものを残し得ただけでも、並々ならぬ教養を感じさす。「文武両道の達人」といった人間像に、私は強く惹き込まれた。(略)]と記述。
 特に「萬御用覚帳」(よろずごようおぼえちょう)は資料的価値が高いとか。
 でも読み書きそろばんは当時のお相撲さんにとって不要だったはず?
 同文献に雷電が上田市(旧丸子町)長瀬にあった上原道場(浦風部屋)に入門してから師匠は、体を鍛えるだけでなく、読み書きそろばんの初歩を学ばせたことや雷電は学問の修得が早く、門下生の中では秀才だったため、師匠は臨済宗の和尚につかせてさらにきびしい修行をさせたことが記述してあります。
 学問まで習わせた師匠の見識の深さに驚かされます。
 また、文献(信濃力士伝)では「徳川11代将軍家斉の上覧相撲が、江戸城吹上御苑において行われ、雷電は東関脇陣幕と対戦、陣幕の強烈な張り手に続くのど輪攻めに敗れたが、このとき、雷電は即座に、「陣幕に張りつめられし御上覧今年ゃ負けても来年(雷電)は勝つ」と、自分の四股名と来年とをしゃれ合わせた狂歌を詠んだと伝えられている。」とあり、狂歌も親しんだようです。

 文献「雷電為右衛門(上)」に「人間は、誠実そのものであった。そのため、主君からは愛され、市井の人に親しまれた。人気も高かったわけだ。相撲ひと筋に打ち込みながら、人を押しのけてまで、権威の上にあぐらをかこうとはしなかった。横綱より強い大関でありながら、遂に生涯「横綱」を張らなかった謎も、そんな人柄から解けてくる。」と。
 それに生家にあったパンフレットによると「33才の時、故郷大石村に帰った雷電は五十両で自分の生家を建てなおした。(略)その家は自分が少年時代世話になった長瀬村の庄屋上原家より小さく建てた。ここに義理堅い雷電の一面がうかがえる。もっとも、家の竣工祝に、建築費と同額の五十両を投じ大盤振舞をしたという。」とありますから、人間味にあふれた関取だったのかもしれません。
(注)同じ相手に負けたのは花頂山(後年の大関市野上)だけ。
引用参考文献:中村倭夫著「信州力士伝 江戸時代篇」53p,57p甲陽書房、小島貞二著「雷電為右衛門(上)」13p,14p學藝書林、東御市教育委員会・力士雷電の生家「無双力士雷電為右衛門」パンフレット

この記事へのコメント
Re:信濃力士伝9 by モリノブ

 読むほどに雷電の魅力が伝わってきます。今の時代でも、勝負師のお手本の人物でしょうか。私の描いていたイメージとは違っていましたが、会ってみたかった人物ですね。考えさせられます・・

モリノブ様Re:信濃力士伝9 by 内藤

雷電は漢詩までたしなんだようで、自作の詩が残っています。人がいいためか、事件(鐘)に巻き込まれてしまうこともあったようです。大力士で無敵だったのに謙虚なのが驚きます。それにいい師匠に恵まれたのがよかったのかもしれません。

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