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2008年11月27日 福島正則の晩年1

 福島正則が築造したと伝えられる”大夫の千両堤”(小布施町小布施千両)のようす。この辺、千両団地と呼ばれ、千両公民館、千両ラーメン等千両という字が目に付きます。
 現地案内板によると千両でこの堤(高さ1.5m・幅5.5m、築堤当時は2kmあったらしいですが今は数十m)を造ったからだとか。何か千両というといいネーミングですね。

20081127-1.jpg

 福島正則(1561〜1624年)というと豊臣秀吉の後期から関ヶ原の合戦(39歳)までのイメージしかないのが一般的でしょう。そこで数回に分けて彼の知られざる晩年(59〜64歳)を追ってみたいと思います。
 愛知県出身の正則は貧乏な暮らしから賤ヶ岳の七本槍で功績を上げ5000石与えられ、湯月城主・国分城主(愛媛県)、伊予今治11万石、尾張清洲城主24万石を経て家臣約700人(家族は別)をかかえる49万8223石の広島城主(1600年・40歳)に昇り詰めました。 そして、下記の有名な改易事件が起こり、
 文献(福島正則)によると「元和二年(1616)、正則は帰国を許され広島へ帰ったが、翌三年、春の長雨で太田川が氾濫して大洪水となり、広島の市中の河川は堤防が決壊して多くの橋梁が流出したほか、夏の洪水でも城下一円が大災害に見舞われ、正則居城の広島城も三の丸まで浸水し、石垣や櫓の崩れた場所も多かった。そのため正則は修復を急いだが、それが「将軍の許可を得ていない」として罪に問われることになった。」と記述。
 大変な大水害の城修復を問われ、長野県高山村高井の居城へと島流し(失礼な)に遭ってしまいます。
 最後は家臣約30余人の4万5千石(小布施町・中野市・高山村2万石及び新潟県魚沼地方2万5千石)になるのですから激動とも言える人生。もっとも最後は息子正勝(三男・享年21歳)が亡くなったので25000石(新潟県魚沼市)を幕府に返上していますので正確には2万石で終わったことに。
 正則は長野県に来てから検地を手始めに用水路の整備、治水事業、新田の開拓等わずか6年(1619〜1624)の間にいろいろなことをおこなっています。もともと治水事業や堰の整備は得意だったようでそういう分野に強い家臣がいたからでしょう。
 上記写真に見られる堤は霞堤(かすみつつみ)と呼ばれ、「松川が現小布施町地内の松村、六川、中条、清水、山王島方面に乱流して、当時の延徳湖に流入していた流路を整理して、大きく西北方向に流路を変更した。」(長野第73号)とありますからすごい治水事業だったかと思います。正則がしたという確かな資料はないようですが、言い伝えは案外ほんとのことが多いでしょう。
 この霞堤とは?
下記サイトの説明によると
「霞堤は現在の一般的な堤防と違い不連続に堤防が築かれており、一定水量以上の洪水を、堤防と堤防が切れている間から田畑などの比較的被害の少ない所にためるしくみとなっています。堤防が所々で切れている様子がたなびく霞に似ていることから、このように名付けられたといわれています。一般に複数の霞堤が並んでいる堤防は、水が流れている所から人が住んでいる方に向かって順に一番堤、二番堤と呼んでいます。略」と説明。
 今の堤防とは考え方が違うようで、下図のような感じでいくつかの堤防を段々状にして洪水を防ぐようにして造られました。詳しくは下記サイトをご覧になってください。
 堤防というとどうしても全部がつながっているようなイメージを持ってしまいます。
−−−−−−−−−−−
川→ → → →
  −     −   
−−  −−  −−  −−(堤)
けんせつほくりく
http://www2.hokurikutei.or.jp/backnum/00apr/sm_folder/sm2.html
http://www2.hokurikutei.or.jp/backnum/00apr/sm_folder/sm3.html
引用参考文献:福尾猛市郎・藤本篤著「福島正則」177p中央公論新社、国土交通省北陸地方整備局千曲川工事事務所「千曲川今昔」43p社団法人北陸建設弘済会、高橋和太郎執筆「長野第73号 77の3福島正則の左遷状」3p長野郷土史研究会機関誌(昭和52年5月発行)
書くのに少し時間がかかりました。長いのに呼んでいただいた方々に感謝、感謝。次回は12/2・3頃の予定です。

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