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2010年03月30日 安宅の関

石川県小松市にある安宅の関(あたかのせき)の銅像。
左から源義経、武蔵坊弁慶、富樫氏。ついでに私と四男も写ってます。
だれでも知っていますけど、百科事典ウィキペディアによると
”源義経が武蔵坊弁慶らとともに奥州藤原氏の本拠地平泉を目指して通りかかり弁慶が偽りの勧進帳を読み義経だと見破りはしたものの関守・富樫泰家の同情で通過出来たという、歌舞伎の「勧進帳」でも有名。”

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この頃の時代背景を少し調べてみました。
1180年8月:富士川の戦いで源平の合戦
1181年1月:東大寺の大仏殿や興福寺が平重衡(たいらのしげひら)によって焼き討ち。
その後、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが僧侶の俊乗坊重源。
1185年:壇ノ浦の戦い、義経鎌倉へ、大仏開眼法要
1186年:義経一行吉野山へ避難
1187年3月頃、安宅の関事件
1190年:再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれた。

 そもそも勧進とは、「堂塔・仏像などの建立・修理のため、人々に勧めて寄付を募ること」(yahoo辞書)とか。
 大仏再興は、必要な資金を集めるのが最大の難関だったようで、重源(ちょうげん)は全国各地に資金集めのための使者をたくさん送っています。それで義経弁慶一行は山伏姿に変装していたのかもしれません。
 大勧進職は、当初、後白河法皇によってあの”法然”が内命されたようですが、法然は固辞して教え子とも言うべき重源を推薦しています。重源の死後は、栄西(臨済宗の開祖)が大勧進職を継いでいます。
 文献(旅の勧進聖重源)によると
”勧進はまず後白河法皇や女院などの上流階級からはじめ、そののち洛中の諸家を訪れた。(略)女院から銅10斤の奉加を受け、他所からは銭1000貫文、あるいは金6両などと、募財の一輪車が京中を馳せ廻った。やがて重源の指揮のもと五畿七道におよぶ。それは「大勧進以下同胞50余人」とも称されるが、(略)大勧進重源の下に中勧進・小勧進として組織されていて、こうした勧進聖があってこそ効果的な勧進の実も期待されたのである。有名な安宅の関の義経・弁慶一行の「勧進帳」や、西行の奥州勧進途次での頼朝とのエピソードなど、後世に語り伝えられる名場面の下地がこうして形成された。”
 文献(大厦成る)によると頼朝も塗金用の砂金を2回(300両と130両)に分けて寄進しています。
 私は知りませんでしたが、重源は東大寺再建に際し、西行にも奥州への砂金勧進を依頼してました。
 大仏の再建にあたって、日本(草部是助)と宋(陳和卿)の鋳物師集団が大活躍。大仏は銅8万3950斤、金箔10万枚、黄金1000両、水銀2万両を要して、もとの姿(仏身に鍍金なし)になったようです。重源の支援者に仏師の快慶がいて、東大寺復興をはじめとする重源関連の造仏に数多く携わっています。
 頼朝は、大仏殿供養会に参列する際、東大寺に馬1000疋、米1万石、黄金1000両、上絹1000疋(文献:旅の勧進聖重源)を寄附していますから、東大寺周辺は馬であふれかえっていたことでしょう。
 この地には、与謝野晶子が詠んだ句の石碑もあって楽しめたひとときでした。
 ちなみに江戸時代の1両でさえ今のいくらに相当するかはよくわかっていないそうですから鎌倉時代初期の黄金1000両というとどのくらいでしょうか。
日本銀行(江戸時代1両=4万円くらい)
http://www.boj.or.jp/oshiete/money/05700004.htm
レファレンス協同データベース(江戸時代1両15〜30万円)
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000013860
引用文献:中尾堯著「旅の勧進聖重源(日本の名僧)」89p,92p,108p吉川弘文館、広瀬鎌二著「大厦成る」221p,229p彰国社
参考文献:百科事典ウィキペディア「重源」、杉本苑子著「人間紀行」文春文庫

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