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2010年05月31日 中国旅行1

 5月14日から18日まで中国へ研修旅行に行ってきました。
 コースは大連、旅順、上海。中国の発展ぶりに、”そのうち日本人が中国へ働きに行く時代が来るかも、また子供が大学の第二外国語を選ぶのだったら中国語がいいな”としみじみ思いました。
 写真は大連大広場(東洋拓殖(株)付近)のようす。
 太平洋戦争時(1945)まで、この大広場に面して東洋拓殖株式会社がありました。
 私の師匠(大河内一雄)は、ここの社員(東拓満州北支駐在理事付)だった話を生前よく聞かされてましたから、私にとって思い入れが深く、感慨深げにいつまでも眺めていました。

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 大河内一雄は、小学校5・6年時にあの川島芳子と同級生でした。
 文献(遙かなり大陸−わが東拓物語)に「大正七年(1918)4月、東京府立豊島師範附属小学校の五年生に、松本市の小学校から丸顔で目のぱっちりとした色白の利口そうな女の子が転校してきた。姓名を川島芳子といい、きれいな洋服を着て、愛らしかったばかりでなく、態度言動はまことに活発であったので、たちまちクラスの人気者となり、われわれ男子は皆夢中になって、競って彼女の歓心を買おうとした。」とあります。
 また、作家上坂冬子氏は、その著書「男装の麗人川島芳子伝」の中で「川島の伝記によれば来日当初の芳子は年齢よりも低いクラスに入学し、成績優秀で飛び級によって相当のクラスに変わったとあるから、転校ではなく飛び級で大河内のクラスに編入したものと思われる。」と上記文献(遙かなり大陸−わが東拓物語)を引用して当時の状況を記述しています。そういえば師匠はこの文献発売時、嬉しそうに上坂氏との事や当時の状況を事務所で語っていました。
 川島芳子は、養父(川島浪速)が住んでいた長野県松本市から東京(赤羽=今の十条)へ転居してきました。当時、桜の木が200本もあった広大な豪邸だったそうです。(男装の麗人川島芳子伝)
 豊島師範附属小学校は、東京高等師範附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、青山師範附属小学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)とともに超名門校として知られていました。豊島師範附属小学校(現:学芸大附属竹早小)出身者で有名人といえば、川島芳子の1年下のクラスであった劇作家田中澄江氏やサッカー日本代表監督(1936)鈴木重義氏でしょうか。
 その後、師匠は川島芳子の素性を新聞で知ることになります。
 同文献(遙かなり大陸−わが東拓物語)で「私が中学4年のころ、新聞に彼女に関するある事件が大々的に報道され、初めて彼女の素性をはっきりと知ったのであった。彼女は清朝粛親(しゅくしん)王の王女で、満蒙独立運動化川島浪速氏の養女となったひとであった。
 その後十数年を経て、たしか昭和15年(1940)春に、偶然にも新京の軍人会館のロビーで彼女を見かけ、一言二言ことばをかわした。軍装の彼女は、昔の面影が残ってはいたが、関東軍の参謀たちに取り囲まれ、そのあまりの変わりように私は驚いたものだった。」
と懐かしく当時を回想しています。
 それに川島浪速の満州活動の資金源が自分の会社=東洋拓殖(株)であったことやその巨額な債権(浪速の債務)の回収を担当させられたのが不思議な縁だったことも。
 ここに来て、師匠の若い頃を想像していました。
<文献>
大河内一雄著「遙かなり大陸−わが東拓物語」96〜97p,績文堂
上坂冬子著「男装の麗人・川島芳子伝」71〜75p,文春文庫

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