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2010年09月08日 接待という地名

 仕事柄、珍しいというか変わった地名に遭遇することがあります。
 そこで、今回は珍しい地名について。
 長野県小県郡長和町和田の中山道(国道142号)沿いに”接待(せったい)”という地名があります。写真は、その”接待”にある復元された人馬施行所。今時珍しい茅(かや)葺き屋根が雰囲気をかもし出しています。

20100908-1.jpg

 文献(長野県の地名 由来)によると
”「接待」は江戸時代の文政年間(1818〜1830)に江戸の富商で篤志家の加瀬屋与兵衛によって設けられた「人馬施行所」があったところの地名です。”
 また、百科事典ウィキペディアによると
「江戸時代、中山道には69の宿場があった。このうち信濃には碓氷峠を越えて軽井沢宿から入国し、木曽の馬籠宿から美濃に出る。このあいだには26宿あり、幕府は平均2里に一宿おいた。ところが、和田宿と下諏訪宿のあいだには5里以上の長い距離があった。加えて両宿のあいだには、和田峠という、非常に険しく、降雪量も多い街道一の難所だった。(中略)当時、街道の宿は、幕府の直轄下だった為、正規の宿場以外は禁じられていたが、宿と宿の距離が長い難所などでは、このような施設がおかれていた。この事からこの辺りは「接待」と呼ばれるようになった。」とのこと。
 下記の長和町サイトによると「明治3年まで、11月から3月には旅人に粥と焚火を、牛馬には年中桶一杯の煮麦を施行したところです。」
永代人馬施行所
http://www.nagano-tabi.net/contents/Search/index.php?mode=disdetailsisetu&cityid=33&junleid=33&indexid=3

 確かに和田峠は中山道最大の難所と言われてました。
 江戸末期に和田峠を通った和宮(14代将軍徳川家茂に嫁ぐ皇女)一行を出迎えた当時の人々はたいへんな負担をしいられました。なにしろ和宮の行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員(草津宿本陣蔵『仁孝天皇御末女和宮様御下向御列書』)されたそうですから。現地案内板(中山道)によるとこの時、4日間で延約8万人が通行したほど。
 それに軽井沢の碓氷峠を越える際、和宮のために傾斜のゆるやかな道さえ造ったとか。
 でも、この中山道は姫街道(下記参照)と呼ばれていたそうですから、昔の人は女性も足腰が丈夫だったのかもしれません。
東信州中山道(女性に好まれた姫街道)
http://www.town.tateshina.nagano.jp/nakasendo/area/miyota.html

 また、加勢屋与兵衛は既に箱根に施行所を造っていました。
 下記サイトに「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と歌にも歌われた東海道の難所、箱根の西坂に接待所が設立されたのは文政7年(1824)のこと。江戸の呉服商の加勢屋與兵衛【かせやよへい】が、箱根越えで難儀をする人馬の為に、私財を投じて創設した「人馬施行小屋」が始まりでした。以来、幕末の安政元年(1854)まで、道行く旅人に無料で粥【かゆ】や飼い葉、焚【た】き火などの施しが続けられましたが、運営が成り立たず、やむをえず中断という事態に至っています。」とあります。
三島市
http://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn000122.html
 与兵衛(よへい)の業績は、時代を超えてよみがえりました。きっと与兵衛はあの世で喜んでいることでしょう。
信州・長和町観光協会(復元された人馬施行所)
http://www.nagawa.info/modules/weblogDiary/details.php?blog_id=828
 参考までに”接待”の詳しい意味を知りたい方は下記サイトをご覧ください。
歴史地名ジャーナル第8回(接待)
http://www.jkn21.com/contents/journal/howtoread/howto_08_1.html
<引用・参考文献>
松崎岩夫著「長野県の地名 その由来」416p信濃古代文化研究所
安藤優一郎著「大名行列の秘密」NHK出版 生活人新書
百科事典ウィキペディア(接待)

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