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2010年09月27日 田毎の月

 有名な姨捨(おばすて)の棚田(千曲市八幡)のようす。気に入ったカットが撮れました。機械が入りにくいので、稲刈りはたいへんだろうなとふと思いました。
 この斜面一帯は地すべり防止区域に指定されています。棚田は、地形からいって地すべり防止区域・地すべり危険箇所に指定されることが多いと思います。絶景=棚田=地すべりは、どこの地域にも共通した現象でしょうか。
名月の里 さらしな・姨捨
http://www.chikuma-kanko.jp/meigetsu/
月の都「姨捨」の変遷
http://www.city.chikuma.nagano.jp/app/kanko/080519152516680/080519154545604/20080613111745281.html

20100926-1.jpg

 平安時代から姨捨を詠んだ歌人は多く、江戸時代になると姨捨を訪れる来訪者が急増して姨捨、善光寺参詣コースがパターン化されました。今も更科紀行ツアー、姨捨月見ツアーが組まれるほど人気コースとなっています。俳句が好きな人であれば一度は来たい所でしょう。

 あやしくも慰めがたき心かな 姨捨山の月も見なくに(小野小町)
 月かげはあかず見るとも更科の 山のふもとに長居すな君(紀貫之)
 上の二首の有名な作者は姨捨を訪れていません。

 あひにあひぬをばすて山に秋の月(宗祇)
 宗祇は室町時代の連歌を代表する人で、和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに漂泊(ひょうはく)の人として知られています。そういえば過去のブログ「行基の業績2」で少し宗祇のことを触れていました。ブログ「大徳寺」では宗祇の弟子「宗長」も。

 おもかげや 姨(姥)ひとりなく 月の友 (1688年・松尾芭蕉)
 元旦に田毎の日こそ恋しけれ(1689年・松尾芭蕉)
 前からどうして”田毎の月”というのか不思議に思ってました。
 このブログを書いているとき下記サイトの「長楽寺の下の車道を5分ほど下ると、左に「四十八枚田」の看板があります。四十八枚田は、西行法師が阿弥陀の四十八願にちなんで名づけたと伝えられ、1反歩(いったんぶ)(=300 坪)を48枚に分けた棚田で、田に水のある春にその1枚1枚に月が映る美しい光景が古来から「田毎の月」と呼ばれてきました。」を読んですっきり。
姨捨(おばすて)の棚田
http://www.mtlabs.co.jp/shinshu/hike/obasute.htm
 芭蕉が元旦に田毎の月を恋い焦がれた気持ちが理解できました。今後は5月に同じ角度から撮ってみたいと思います。

 小林一茶は3回姨捨に来ていて下記の句を残しています。芭蕉を尊敬していた一茶らしく。
 姨捨のくらき中より清水かな(1799年)
 けふといふ今日夕月の御側哉(おそばかな・1809年)
 十五夜のよい御しめりよよい月夜(1823年)
 川留やむかふは月の古る名所(1823年)
 最後の句は、千曲川の洪水のため対岸で姨捨をうたったそうです。(更埴市史)

 出でぬより月見よとこそさえにけれ姨捨山の夕暮の空(藤原隆信)
 画家として知られた藤原隆信の和歌もありました。
 百科事典ウィキペディア(藤原隆信)によると「若い頃は歌人として名を上げ、二条天皇や後鳥羽天皇に仕える。しかし、最も後世に語り継がれている功績としては画家としての活動である。隆信は「似絵(にせえ・肖像画)」の名手で、神護寺所蔵の国宝・源頼朝像・平重盛像・藤原光能像などの肖像画は『神護寺略記』に隆信の作と伝えられ、強装束を着た源頼朝像は武門の棟梁たる彼の内面まで描写しているかに思われる。政治的活動は上野介・越前守・若狭守を歴任。1202年出家。浄土宗の開祖法然に帰依する。」
 棚田が形成されたのは江戸時代のようですから、それ以前の和歌は姨捨山を題材にしているのかもしれません。
<引用文献>
「更埴市史第一巻」442p,443p、「更埴市史第二巻」722p,723p,更埴市史編纂委員会,更埴市
「探訪・信州の古寺第1巻・天台宗・真言宗」(長楽寺),郷土出版社
<参考サイト>
31号 - 山家集の研究
http://sanka05.web.infoseek.co.jp/sankasyu5/jitenoo4.html

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