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2010年10月13日 梶原という地名

 写真は、下諏訪駅南西方にある”梶原”という字(あざ)名付近。水田がわずかに残っていました。
 周辺には「王」「弾正」といった殿様や武家との縁が深そうな地名や諏訪湖に近いため「いかり」「新川端」「入江」「浜辺」といった湖に関連する地名が見られます。また、下諏訪駅北東方面には、諏訪大社下社や霞(手塚)城跡付近のためか「神殿(ごうどの)」「馬場」「臺(だい)」のような字名も見られます。
 「臺」は仙台の旧字「仙臺」の臺と同じ意味もあるのかなとふと思いました。というのは百科事典ウィキペディア(仙台)に下記のようにあるからです。
 ”伊達政宗が改めた「仙臺」の表記は、中国唐代の詩人・韓翃(かんこう)による七言律詩『同題仙遊観』に由来する。(中略)もともと中国で「仙臺」は、「仙人の住む尊い場所」という意味があり、紀元前2世紀に前漢の文帝が建てた仙遊観という宮殿は、その壮大さから「仙臺」と呼ばれた。”
 台というと小高い丘や台地の意味を通常指しますが、不思議なことに旧字にすると意味がわかりにくくなります。

20101012-1.jpg

 下諏訪町になぜ梶原という字名があるのでしょうか。その理由を文献(諏訪の歴史)は、下記のように説明しています。背景に「金刺盛澄=盛澄=木曽義仲の家来」があります。
「木曽義仲が滅びたあと、盛澄がなお京都にのこっていることを知った頼朝は、すぐ鎌倉によびつけたが、盛澄は鳥羽の城南寺の流鏑馬の競技に出場していたために、ずいぶん遅れて鎌倉に着いた。(略)盛澄が鎌倉に着いたという報告をうけた頼朝は、その遅くなったことを怒って、『殺してしまえ』と梶原景時にあずけた。あずけられた梶原は、これを殺してその名技の永久に失われることを惜しみ、助命の機会をねらっていた。文治3(1187)年8月15日、鶴ケ岡八幡宮に流鏑馬の奉納があったとき,盛澄は梶原のとりなしで頼朝の前でその名技を見せた。(略)頼朝は感嘆のあまり『盛澄許す』といってしまった。(略)盛澄はこの助命が梶原のおかげであったことを深く感謝し、梶原の亡くなったときは下諏訪の上坐堂の地に宝刀を埋めて塚を作り、梶原の冥福を祈り、毎年の祭費のためにと田地を寄進した。それが今ものこる梶原塚であり梶原田である。」
 一般に梶原景時は源義経、畠山重忠、夜須行宗を失脚させた悪人として有名ですが、彼は義仲と家来60余人(諏訪市史上巻)を救ったという意外な一面がありました。今も梶原という字名が残っているのですから歴史を感じます。
 それに私が驚いたのは、時代は違いますが景時の同族(鎌倉一族)に上杉謙信がいたこと。上杉謙信の若い頃は、長尾景虎と名乗り長尾家の出身でした。新潟県の長尾家は、神奈川県大船の長尾家からの分家でもあります。
 鎌倉一族の名前はほとんどといっていいくらい”景”という字がつきます。
 例えば、
 長尾重景−能景−景虎(謙信)・晴景(兄)−長尾景勝(上杉景勝)
 梶原景長−景清−景時−景季(嫡男)、景高、景茂、景義、景宗、景則、景連

 今年9月中旬に木曽義仲史学会へ”木曽義仲に関連する人物”と題する論文を投稿しました。予定(10,000字)より長文(17,406字)となってしまいました。いつも勢いで書いているので余計なことが多すぎてしまいます。
<引用・参考文献>
「下諏訪町誌上巻」
「諏訪市史上巻」876p
下諏訪町里の字名分布図
今井広亀著「改訂諏訪の歴史」70p,72p諏訪教育会
梶原等著「梶原景時」新人物往来社
下諏訪町教育委員会編「下諏訪町の埋蔵文化財」

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