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2011年06月30日 柿の木

前回同様長野県高森町月夜平の展望台から。

20110630-1.jpg

高森町というと市田柿発祥の地として知られています。
市田柿とは(JAみなみ信州)
http://www.ja-mis.iijan.or.jp/product/ichidagaki.php
 この地方は、平安の昔から柿の栽培が盛んであったかというとそうでもなさそうです。
 文献(信州学大全)に「平安時代になると、文献上、信州において果樹が栽培されていたことを示す記録が出てくる。『三代実録』(908年)によると、仁和二年(886年)信濃国より梨(なし)・胡桃(くるみ)・大棗(おおなつめ)などが、朝廷に献上されている。また、『延喜式』(927年)によると、信濃国からの調(ちょう)として、蘇(練乳のような乳製品)・麻布・あしぎぬ・鮭(さけ)などとともに薬として杏仁(きょうにん・アンズの種子)・棗(なつめ)などが、朝廷に献上されていた。(略)江戸時代に入ると、カキの栽培は盛んになったが、伊那郡立石村(現飯田市三穂地区)をはじめとする串柿の生産は著名であった。」とありましたから。
 ふと小学校の頃、習った租庸調(そようちょう)の言葉を思い出しました。調(ちょう)として献上するくらいですから当時の人は、一番いいものを選んだことでしょう。
柿の収穫量ランキング
http://www.japan-now.com/category/9783673-1.html

 6年ほど前まで私の実家に渋柿の木があり、甘柿の木を接ぎ木をしてしばらく甘柿がなってましたが、数年後にまた渋柿に戻ってしまいました。その後、道路の拡幅により伐採して今はありませんが、用地買収の際、補償の対象となったので貢献してくれました。
 それに先のとがった甘柿の木もありましたが、甘柿なのに渋い部分が結構多くありました。今でも柿を買って食べますが、全部が甘いことは少ないように感じます。それもあって小林一茶は下記の俳句を残しているのかもしれません。

渋いとこ 母がくひけり 山の柿

 文献(信州学)は「柿が甘柿と渋柿に分けられたのは、鎌倉時代になってからである。柿の品種は2000種もあるというが、品種が確立されるのは江戸時代である。平安初期に出された『延喜式』には、熟柿(じゅくし・生食用)と干柿について記されている。渋柿を生食するには、焼酎(現在ではアルコール)をかけて渋抜きをするか、放置して熟するのを待っている。(略)渋柿からとった柿渋は、漆器の下地塗り、渋紙、漁網などに用いられてきた。」と説明。
 それに百科事典ウィキペディア(カキノキ)に「紙に塗ると耐水性を持たせることができ、和傘や団扇の紙に塗られた。」とあります。
 私は、渋柿というと江戸時代、浪人が長屋で傘に柿渋を塗っているシーンを思い出します。仕官を目指して地道に苦労している様を。
 人によって柿というといろいろなイメージをお持ちのことでしょう。
 最近、におい対策から渋柿石けんや柿渋シャンプーが販売されています。いろいろな利用方法があるものです。
今日はとりとめのない話しとなってしまい、失礼しました。
<参考サイト>
柿(四季の植物のうた)
http://www.geocities.jp/sikinosyokubutu/kakinomi.html
柿渋シャンプー&柿渋石けん
http://item.rakuten.co.jp/baramist/271025/
<引用文献>
市川健夫著「信州学」227p,228p信毎書籍印刷
市川健夫著「信州学大全」547p信濃毎日新聞社

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