社長ブログ

ブログ内検索

2012年09月06日 土石流2

 写真右に見えるのは上田市真田町長にある長谷寺(ちょうこくじ)。前回の甲石の比較的近くにあります。
 ここには、真田幸村の祖父真田幸隆の墓があります。幸隆は武田信玄の名参謀として知られ、真田家繁栄の基礎を作りました。
 この寺を含む一帯(道路を中心に両側)が帯状に土砂災害防止法の土砂災害特別警戒区域(土石流型)が指定されています。変わっていることに写真の右のほうに沢(岩井堂川)が流れているのですが、その沢沿いには特別警戒区域の指定がなく、平行するようにこの辺一帯が指定されています。大昔は、この辺に沢が流れていたのかもしれません。土石流によって沢筋が変わることはよくありますので。
 1742年大水害により、ここに土石流が発生し、長谷寺が流されました。真田町誌によると「長谷寺の沢水出て、寺内押し流し、村の中の家21軒流出」の被害状況が報告されています。
 近所の人にお伺いしたところ
”昔、山の上には修験者たちがいて観音様があったようだ。それが流されてしまったせいもあって、この辺の畑を掘ると記念碑や墓といった石がごろごろでる。地形的に山の押出しがあったようだ”と。
 確かに地図上ですが、今でも山の上の方に達磨堂があります。

20120905-1.jpg

 江戸時代、ここを治めていた上田藩が水害被害にあったため幕府より借金した記録(真田町誌)が残っています。
 1732(享保17)年3000両
 1742(寛保2)年5000両
 1751(宝暦1)年3000両
 1765(明和2)年3000両
 1779(安永8)年3000両
 1791(寛政3)年4000両
 1802(享和2)年2000両
 1807(文化4)年2000両
 1859(安政6)年4000両
 この借りた金額によって水害の規模の大きさが計り知れます。
 特に幕末に水害が1855年、1856年、1857年、1859年、1860年、1865年、1866年と毎年のように相次ぎました。
 同町誌にこうあります。
 「幕末の安政四年・六年(1857・1859)・慶応元・二年(1865・1866)とかなりの規模の洪水が上田藩を襲っている。中でも安政六年の洪水は格別に大きかったようである。(略)ペリーの来航と前後して国際政治面ばかりでなく、地震・水害といった大規模な災害が人々の生活を襲い、幕府・藩の財政を直撃するとなれば、よほどの大改革が必要になるとだれもが実感していったのではないか。そう感じさせる出来事である。」
 江戸幕府の崩壊は災害も影響していたと感じさせる名文と思いました。

 土砂災害は繰り返すと言います。江戸時代のことですが災害履歴はさかのぼって調査してみる必要がありそうです。
<参考サイト>
長谷寺/川中島の戦い
http://www.furin-kazan.jp/nagano/shiseki/entry/000675.php
長谷寺
http://www.chouk.or.jp/info/frameinfo.html
真田幸隆
http://www.sysj.com/kansuke/sanada.html
<引用文献>
真田町誌歴史編(下)422p〜426p,429p,432p,433p

この記事へのコメント

書き込んでいただいたコメントは、管理者の確認後に公開させていただきますので、ご了承下さい。

お名前
E-MAIL(非公開)
URL
タイトル
コメント
  投稿キー    [キー入力]
 
迷惑書き込み防止のために投稿キーを設定しています。
投稿キーは8q60です。上記の「投稿キー」にご記入下さい。