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2012年09月10日 土石流3

 写真は東御市祢津(とうみしねつ)の所沢川(しょざわがわ)のようす。
 矢印は土石流によって流れてきたといわれる八間石(はっけんいし)を示しています。
 ここにも巨石がありました。そういえば、私のサイトでこの八間石をケース別評価の留意点(超巨大石を運ぶ土石流)コーナーで紹介(2005年11月公開)していました。

20120910-1.jpg

1742年超大水害により、この辺一帯を大土石流が襲いました。
東部町誌によるとこうあります。

―蠡川の押し出しによる被災=金井・田中・祢津東町・加沢
祢津沢の押し出しによる被災=姫子沢(宮ノ入)・祢津西町
6盡鏡遒硫,圭个靴砲茲詒鏈辧疆貪賃堯Τち瓜ほか
だ藏弊遒糧斗瑤閥盡鏡遒硫,圭个()という双方の被害を受けたもの=本海野
これらのうち、規模・被害とも格段に大きかったのは、,僚蠡川の押し出しによるもので、金井村の死者113人および田中宿(田中・五丁・常田)の同68人は、上小地方でも一位・二位の流死者数であった。

 この土石流の流れた跡(石がごろごろ)は、現在も東部中学校脇の公園(雑木林)に残っています。最も被害を受けた金井村では、全部で65軒のうち62軒が流出または倒壊。その影響で金井村が南東方約500m付近に移転しました。
 跡地(運送会社の裏)には、古明神(ふるみょうじん)がまつられ、数mの大岩がいくつも残っています。
 同町誌に「被災現場から10キロメートル余も離れた上田の町まで、その押し出しの大音響が聞こえたわけである」とありますから、その音のすさまじさが伝わります。
 また、八名(やな)の上遺跡では、水田を歩いた足跡(30cm〜70cmの深さ)が700個近く見つかりました。文献(「戌の満水」を歩く)に「人が田を歩いた直後に大水に伴う土砂に埋まったものと考えられます」とありますから一瞬の出来事だったようです。
 土石流によって大名が参勤交代で泊まる田中宿の大半が流されてしまいました。そのため田中宿(注)は20年後に復旧しますが、幕末まで加賀藩をはじめ大名は一切泊まらなくなったそうです。(「戌の満水」を歩く)

 東御市は町全体が傾斜地のような所で、いたるところが土砂災害防止法の警戒・特別警戒区域(土石流型)に指定されています。土砂災害防止法に興味を持った時、なぜ土石流の起きた所沢川(右岸)一帯が警戒・特別警戒区域に指定されてないのか不思議に思いました。その後、浸水想定区域との関連とやっと気づきました。
 今では上流に大きいえん堤が整備されていますから1742年とは危険性の程度が大きく異なるようです。

(注)上田小県郡誌に「田中・常田の両町を合せて流死者合計68人、流出家屋119軒、残った家が僅かに29軒、実に八割の被害という悲惨な状況であった。(略)田中村では、安永3年(1774)に33回忌、明治26年(1893)に150回忌、昭和16年(1941)に200年忌の供養塔を建立して、法要を営んでいるのをみても、被害がいかに甚大であったかが知られる。」とあります。
<引用文献>
「東部町歴史編下」566p〜573p
信濃毎日新聞社出版局編[「戌の満水」を歩く]61p〜66p
「上田小県郡誌第二巻歴史編下」762p

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