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2012年11月08日 善光寺地震3

写真は水篠(みすず)橋やや下流にある巨岩のようす。
地震後、調査にあたった佐久間象山は、犀川をせき止めていた巨岩に
「堰留の大岩に方八尺深さ八尺の大穴をあけ、中に地雷火を仕掛け岩を砕けばよいと献策した」(信州新町史上巻)といわれています。ただ、写真の巨岩がそれに該当するかどうかわかりません。もともとあった巨岩かも。
地雷火の意味がわからなかったので検索しましたら下記サイトがヒットして納得。
花火の里浅川(伝統の歴史)
http://www.town.asakawa.fukushima.jp/asakawa_hanabi/history.html

20121107-2.jpg

 地震後、水篠橋上流にある長野市信州新町の市街地や周辺では川底が上昇したため水害が頻繁に起こるようになりました。
 文献(信州新町史上巻)に「弘化大地震による岩倉山抜崩れによる犀川の堰塞は、二十日に亘る大湛水になったが一時に欠潰し、濁流突出によって押し流され、堀り深められたのであるが、旧河床までには至り得ず、ある程度は河床が高くなったと考えられる。そのために犀川上流筋が一般に河床が上昇し、新町付近において三メートル前後川敷が高くなったと推定される。そのために新町川辺筋は以前に増して水害に見舞われるようになり、以後長年に亘って水害との戦いの連続であり、ついに近年にまでおよんだのである。」
 同文献には地震(1847年)後の1850(嘉永3)年や1859(安政6)年に水害時のあったことを記す古文書が紹介されています。
 犀川のせき止めによって信州新町の中心地は水没してしまいました。
 文献(ダム災害との闘い)に「この時、村の水位は467メートルに達した(水内村=信州新町の標高は425〜428m)。古老の話によれば、役場前の神部神社の森木の先端が烏が浮かんだようだったという。このため犀川沿岸の各部落は湖底に水没し、水内村の新町・下市場・里穂刈は壊滅的な被害を受けた」とあります。
 その後、明治時代になっても20回におよぶ水害のあったことが水害年表(信州新町史上巻)に記載されています。
 また、同文献(信州新町史下巻)に「明治43年の千曲川犀川の大水害を契機として大規模の治水事業が計画された。大正7年千曲川、犀川の砂防工事が、砂防法第6条により、内務省の直轄で行われることになった。大正12年河川法第8条により千曲川改修工事として進められ、築堤水門等5回も計画が変更されて昭和16年にようやく竣工したのである。かくて、この国営大堤防工事の着手頃から、千曲川の洪水による水害はなくなっている。しかし、信州新町を中心とする犀川の中流地域は沿岸堤防修築程度で根本的対策は施されていなかった。だからこの犀川沿岸は大雨増水によって大なり小なりに昔のままの水害に見舞われていた。」とあります。
 地震後も信州新町地区では、後遺症たる水害に長年苦しんだことがわかります。
<引用文献>
「信州新町史 上巻」755p,763p
「信州新町史 下巻」568p〜570p
中沢徳繁「ダム災害との闘い」22p,23p ,川辺書林

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