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2013年07月19日 文人の足跡3

 写真ほぼ中央に写る石碑は、横倉渠碑(よこくらみぞのひ)。山ノ内町夜間瀬の横倉集落上部の農地にひっそりとたたずんでいます。
 案内板によると昭和15(1940)年紀元2600年記念事業として建立されました。
八十二文化財団:横倉の渠の碑 
http://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=3652&seq=0

20130719-1.jpg

 この石碑は驚くことに
撰文(せんぶん)−森鴎外
篆額(てんがく)−徳川慶喜
書家(しょか)−三村三邦

 文献(横倉区誌)を整理すると
 石碑建立担当者らが、松本連隊(現在の陸上自衛隊松本駐屯地)にいた蟻川五郎(連隊長)を訪ね撰文依頼の相談をしました。森鴎外(本名:森林太郎)は陸軍軍医総監・陸軍省医務局長(徴兵検査)として松本へ来ていたらしく、蟻川と面識があったため依頼されたようです。
 森鴎外は日記(明治42年9月24日)に「・・次いで蟻川五郎作信濃国夜間瀬の村人坂口亨等三人を伴い来りぬ。新堰の碑を建つとして撰文を乞うなりけり云々」とあり、また日記(明治44年3月7日)「木、陰、横倉渠碑を草し蟻川五郎作に送る云々」と書いています。
 鴎外が書いた横倉渠碑の撰文は鴎外全集に収められています。
森鴎外全集第38巻「横倉渠碑」
http://kenkyuyoroku.blog84.fc2.com/?mode=m&no=996

 次に篆額(題字)が徳川慶喜作成の理由は、同文献に説明があります。
”徳川慶喜公の書になる篆額も蟻川五郎氏の口添えで、赤岩出身で大正天皇の教育係をされた湯本武比古氏から頼んで頂き書いてくださったものである。(略)この時徳川公へのお礼に「そば粉」を献上したらしく、蕎麦粉の礼状が坂口亨氏へ来ており今も残っている”
 最後に三村三邦(本名:三村清三郎)は東京で竹屋を営み、俗に竹清といわれた学者です。鴎外と親交があったらしく、鴎外の作品「伊沢蘭軒」に登場しています。
 鴎外の撰文作成時期(明治44年)からだいぶ遅れましたが、三村三邦の揮毫(昭和15年春)もそろって、建立(昭和15年11月23日)にこぎ着けた経緯がありました。

 横倉渠碑の堰は、先人達が長い年月をかけ50kmにもおよぶ水路(3本)を完成させたものです。
 石碑や堰の壮大さに心打たれました。このブログを読まれた方も訪れてみたくなるのでは?
長野県(横倉堰・須賀川堰の歴史)
http://www.pref.nagano.lg.jp/nousei/nochi/agriobje/01yomase/top.htm
<引用文献>
横倉区誌刊行委員会編「横倉区誌」397p〜400p
<参考サイト>
文京区立森鴎外記念館
http://moriogai-kinenkan.jp/
<参考文献>
山ノ内町誌、長野県土地改良史第二巻(土地改良区誌編)

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