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2006年03月14日 条里制跡

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 千曲市屋代地区に広がる水田、条里制跡のようす(H18/3/6撮影)。この地区一帯は平安時代に広まった条里制跡が残る水田として知られています。
 長野県土地改良史によれば「1961年から65年にかけての発掘調査により、地表面に残る条理地割の地下に平安時代前期(9世紀)の千曲川洪水によって埋没した条理地割(埋没条理)が存在したことを明らかにした。これを契機に、地表面に残る条理地割(表面条理)を単純に古代の律令制の時代までさかのぼらせることはできない」と記述。
 てっきり条里制跡というものですから中学校で習った班田収受法(701年,8世紀)の時代かと思ってました。また、近くにある石川条理遺跡、川田条理遺跡調査等から条理地割が全面的に施行されるのは平安時代になってからのようです。それにしても、この地域一帯を覆い尽くしてしまう歴史上の猛水害(注)というのは恐ろしいの一言。こういった平安時代からあるような条理的遺構は歴史的景観、長く残っていて欲しいものです。
 また、この資料によれば時代ごとに水田開発の歴史が記述されていて興味深いので要約してみました。
・弥生時代:自然地形を利用した不定型で小規模な水田が多い、1区画30屬らい
・古墳時代:大きな畦が出現し、それによって仕切られた内部に小さな区画の水田がつくられる。用水体系も整備
・奈良時代:古墳時代の大畦や水利形態を踏襲。しかし、奈良時代に開発され、奈良時代から平安時代はじめに埋没した水田では条理地割がつくられた地区も確認
・平安時代:9世紀後半になると全面的に条理型の地割が展開
 弥生時代のように、用水路が発達していない時代、水田は小規模とならざるを得なかったんでしょうね。考えてみれば水田を開発するには用水路の掘削が重要、ここはほぼ平坦地に近いので用水網に苦労したのではないかと思います。
 遺跡発掘調査記録によれば、「弥生時代初期、灌漑技術が未熟のため湿田(注2)がほとんどで中期以降、乾田が造られはじめた。」とのことですから、湿田といえば聞こえはいいですが泥地のようなものでしょう。弥生時代の田は、現代から見れば一辺が5m前後の小規模で粗末なものだったのでしょうか。
(注1)長野県歴史上の三大水害:仁和(888年)、戌の満水(1742年)、善光寺地震(1847年)
(注2)広辞苑によれば「湿田は排水不良のため一年中、水湿の多い水田。乾田は排水良好で、灌漑を止めると田面が乾燥し、畑にしうる田」、ちなみに現代は生産性の良好な乾田。参考文献:長野県土地改良事業団連合会「長野県土地改良史第一巻歴史編」、長野県災害年表、長野市教育委員会「石川条理的遺構3」

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